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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

てつを つくる むかしの かま「たたら」は、どうやって おおきく できたの?

直径50cmの炉が、長さ約3mの炉と18m四方の建物になるまで ── たたらを大きくした3つの工夫

たたら炉はどうやって大きくなったのか ── 湿気・送風・砂鉄の壁と、銑押し・鉧押しの使い分け

分野:技術

むかしの てつづくりの ろは、古墳時代こふんじだいには よこはばが 50センチ ほどでした[1]。それが えどじだいには、ながさ 3メートル ほどの ろを、18メートル しほうも ある たてものの まんなかに おく ように なります[3]。

ろを おおきく するのは、かんたんでは なかった ようです。なにが こまり、どんな くふうで のりこえたのかが わかります。

古墳時代の終わりごろ、鉄を作る炉は直径50cmほどの小さなものでした[1]。ところが近世には、長さ250〜300cmの箱形の炉を、大きいもので約18m四方の建物の中央に据えるようになります[1][3]。

炉はただ大きくすればよい、というものではなかったようです。大きくなった炉の前に何が立ちはだかり、人々はどんな工夫でそれを越えたのか。湿気、送風、砂鉄の3つの壁と、産地ごとの鉄の作り分けが分かります。

古墳時代後半の製鉄炉は径50cm程度の自立炉だった。近世の高殿たたらでは、長さ250〜300cm・幅70〜90cm・高さ110cmほどの箱形炉を、大きいもので10間(約18m)四方の建物の中央に据えた[1][3]。なお古代は径、近世は長さの数値なので、倍率を単純に比べることはできない。

炉を大きくするほど、足もとの湿気と送風の負担と砂鉄の確保が重くのしかかる。その3つにどう答えたのか、さらに産地が銑と鋼をどう作り分けたのかが分かる。

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1. ろは、どれくらい おおきく なったの?

1. 直径50cmの小さな炉から、長さ約3mの箱形炉へ

1. 径50cmの自立炉から、長さ250〜300cmの箱形炉へ

古墳時代こふんじだいの ろは、まるい つつの ような かたちで、よこはばが 50センチ ほどでした[1]。ならじだいには ながい はこの かたちの ろが あらわれ、えどじだいには ながさが 3メートル ちかくに なります。

はこの ろを たてものの なかに おく、大きな しせつも できました。たかどのと よばれます[3]。

ただし、まるい ろの よこはばと、はこの ろの ながさは ちがう ものさしです。「6ばい」と かんたんには いえません。では、ろを おおきく すると、なにが こまるのでしょう。

近世の炉の大きさは、数字で見ると驚きます。古墳時代後半の炉は、円筒形か隅丸方形の自立炉で、直径は50cm程度でした。奈良時代になると炉の長さを延ばした箱形炉が現れ、近世には長さ250〜300cm、幅70〜90cm、高さ110cmほどになります[1]。

ここで気をつけたいのは、古代の数字は「直径」、近世の数字は「長さ」だということです。「6倍」と簡単に言うことはできません。それでも、人が中に入れそうな細長い炉と、小さな円筒とでは、まるで別の道具です。

では、炉を大きくすると、何が困るのでしょうか。最初に問題になったのは、炉そのものではなく、炉の足もとでした。

古墳時代後半(6世紀後半)の炉は、平面が円筒形または隅丸方形の自立炉で、径は50cm程度だった。奈良時代には炉の長さを延ばした箱形炉が現れ、近世には長さ250〜300cm、幅70〜90cm、高さ110cmほどに達する[1]。ただし古代は径、近世は長さ・幅・高さの数値であり、単純な倍率比べはできない。一般向けの解説には中世の炉を長さ2〜5mとするものもあり、数値には幅がある。ここでは、公的な解説である[1]の数値を採る。

炉を大型化する利点は、一度に溶かせる砂鉄と、できあがる鉄の量が増えることだ。ところが、炉が大きくなれば条件も重くなる。砂鉄を溶かすには1300〜1500℃の高温が要るとされ[9]、炉が大きいほど、その温度を保つ難しさも増す。では、最初に立ちはだかったのは何か。それは炉の中ではなく、炉を載せる地面だった。

2. ろの したに、おおきな あなを ほったのは どうして?

2. 炉の下に巨大な地下構造を埋めた、足もとの湿気対策

2. 床釣りと「一床、二土、三村下」── 炉の下を作る手間が最優先だった理由

てつを とかすには、とても あつい ひが いります。じめんの しっけが ろの したに のこって いると、おんどが あがりにくく なる、と せつめいする しりょうが あります[9]。

それで ちゅうせいから、ろの したの ほりこみが おおきく なりました[2]。えどじだいの たかどのでは、ろの したに「とこづり」と いう、すごく 大きな ほおんと しっけどめの しかけを つくりました[3]。

「一とこ、二つち、三村下むらげ」という ことばも のこります。ろを たかく つむ ことより、まず したの じめんを つくる ことが だいじ、と いう いみです。

鉄の材料になる砂鉄を溶かすには、約1300〜1500℃の高温が必要です。ところが、炉の下の地面に湿気が残っていると、温度がなかなか上がらない、と説明されています[9]。炉の足もとの水分は、大きな炉にとって見のがせない問題でした。

そこで炉の大型化にともない、地下の防湿・保温の構造も大きくなりました。中世には防湿と保温のために地下が大きく作られ、出雲では溝のような掘込みの構造が使われました[2]。近世の高殿たたらでは、「床釣り」と呼ばれる巨大な保温・防湿の構造を炉の地下に設けています[3]。

この仕事の大切さを表す言葉が「一床、二土、三村下」です。炉づくりの責任者である村下の腕より、粘土や床づくりのほうが先に来る、という意味で伝わっています[9]。

地面の下が整って、ようやく炉が安心して燃えます。次は、大きな炉に空気を送りこむ番です。

炉の大型化で最初に問題になったのは、足もとの湿気だった。砂鉄を溶かすには約1300〜1500℃が要るが、炉の地下に水分が残ると、その熱が奪われて温度を上げにくい、と説明されている[9]。そこで中世には炉の防湿・保温のために地下構造が大型化し、出雲では溝状の掘込み構造が採られた[2]。近世の高殿たたらでは、炉の地下に床釣りと呼ぶ巨大な保温・防湿構造を設けている[3]。

床(とこ)づくりの重みは、「一床、二土、三村下」ということばによく表れている[9]。操業を指揮する村下(むらげ)の技より前に、床と粘土が挙げられている。これは、炉が大きいほど失敗の原因が地下に隠れやすく、あとから直しにくいからだと読める。ただし、この点を明言した資料は今回の材料にはなく、筆者の読みである。

では、地下が整えば大きな炉は動くのか。そうではない。炉が長くなれば、炉の奥まで空気を送る力が足りなくなる。次の壁は送風だった。

3. おおきな ろに、どうやって かぜを おくったの?

3. 大きな炉に風を送る、シーソーのような踏み板「天秤鞴」

3. 天秤鞴の開発 ── 送風量を増やしつつ、番子の負担を減らした仕組み

ひを つよく するには、かぜを おくる 「鞴ふいご」が いります。むかしは、ふいごを ふむ 人が ひつようでした。

えどじだいの はじめごろに できた「てんびんふいご」は、シーソーのように 2まいの いたを こうごに ふみます。まんなかに 立つ「番子ばんこ」が、あしで こうごに ふむ しくみです[5]。

これで かぜの りょうは ふえ、ふむ 人の ふたんは へりました。しまねけんの せつめいでは、せいさんの こうりつが それまでの 2ばいに なった とも いわれます[4]。ただし 「2ばい」は いわれて いる あたいで、きまった かずでは ありません。

近世に大きくなった炉には、強い風が必要でした。そこで工夫されたのが天秤鞴です。両端に支点のある2枚の踏み板を、真ん中に立つ番子が左右交互に踏みます。シーソーを足で動かすような形で、送風量が増え、番子の負担も軽くなりました[5]。

島根県の解説は、17〜18世紀の天秤鞴の開発で送風能力が上がり、必要な労働力も減って、生産効率は従来の2倍になったと言われている、としています[4]。この「2倍」は「言われている」値で、固定の数字ではありません。

発明の時期や場所は、資料によって食いちがいます。Wikipediaは1691年(元禄4年)に出雲国で使われていたことが文書に残るとしますが[5]、島根県の問題集は17〜18世紀、石見地方での開発と書いています[4]。ここでは「17世紀末から18世紀ごろに広まった」くらいにとどめておきます。

炉も風も整いました。それでも、材料の砂鉄が足りなければ炉は動きません。

炉が長くなると、空気を炉全体へ送る送風の量が決定的になる。そこで使われたのが天秤鞴で、両端に支点のある2枚の踏み板の中央に立つ番子が、左右交互に踏む方式である。送風量が増え、番子の負担が軽くなったとされる[5]。島根県の解説は、17〜18世紀の天秤鞴の開発で送風能力が高まり、必要な労働力も減って、生産効率は従来の2倍になったと「言われている」と述べる[4]。この2倍は伝承的な値で、固定値として扱えない。

起源の記述は資料で割れる。Wikipediaは1691年(元禄4年)の出雲国での使用が文書に残るとするが[5]、島根県の解説は石見地方での17〜18世紀の開発とし[4]、さらに別の資料は備中での18世紀前半と記す。ここでは年も地域も1つに決めず、「17世紀末から18世紀にかけて普及した」という幅で捉える。

地下の防湿と送風が揃うと、炉は大型化の条件を満たす。残る問いは、その炉を満たす砂鉄をどこから持ってくるのか、だった。

4. たくさんの すなてつは、どこから もって きたの?

4. 山を崩して川で選び分ける、鉄穴流しの砂鉄集め

4. 鉄穴流し ── 大量の砂鉄を支えた採取法と、下流の田畑への配慮

おおきな ろは、すなてつも たくさん つかいます。やまの つちを みずで ながして、おもい すなてつだけを あつめる「かんなながし」という やりかたが ありました[2]。

これで たくさんの すなてつが とれ、てつの たいりょう せいさんの もとに なりました。でも やまが けずれ、かわの したに ある はたけにも えいきょうが でます[5]。てつづくりは、かわの したの くらしとも つながって いました。

大きな炉は、砂鉄もたくさん食べます。そこで中世の終わりから近世にかけて広まったのが鉄穴流しです。砂鉄を含む山の土を水で流し、重い砂鉄だけを選び分けて集める方法で、近世の鉄の大量生産の土台になりました[2]。

ただ、山は削られ、土は川を下ります。下流の農地への影響があった、と説明されています[5]。鉄づくりは山の中だけの話ではなく、川の下の暮らしともつながっていました。

砂鉄がそろい、風も床も整うと、あとは炉を雨風から守り、人が働き続ける場所が要ります。

大型の炉を動かすには砂鉄の供給が要る。中世末〜近世に始まった鉄穴流しは、砂鉄を含む山の土を水で流して砂鉄を選別する採取法で、近世の鉄の大量生産の土台になった[2]。

代償もあった。山が削れ、土砂が下流に流れて農地に影響が出た[5]。鉄の生産は、川の上流だけでなく、下流に暮らす人々の田畑とも無関係ではなかった。

地下・送風・砂鉄という3つの条件が整うと、炉を据え置いて操業できる。そのための施設が高殿だった。

5. ろを まもる おおきな たてものと、むらの くらし

5. 炉を囲む18m四方の高殿と、「山内」と呼ばれた技術者の集落

5. 高殿と永代たたら ── 菅谷たたら山内に残る、固定された製鉄所の姿

大きな ろと ふいごを、ひとつの たてものに まとめた ものが、たかどのです。大きい ものは 18メートル しほうも ありました[3]。

この まわりには、はたらく 人たちの むらが できました。「さんない」と よばれます[3]。しまねけんの すがやたたら さんないには、たかどのが いまも のこって います。

ここでは さかんな ころ、1ねんに 50〜60回、たたらを ふきました。1回は 3〜4日 つづけます[6]。

高殿は、砂鉄、木炭、天秤鞴、床釣りを備えた、近世の永久的な製鉄施設です。大きいものは10間(約18m)四方で、屋内の中央に長さ10尺(約3m)ほどの箱形炉を据え、両脇の鞴から各20本程度の送風管を炉に入れました[3]。これは「大きいもの」の目安で、すべての高殿が同じ寸法だったわけではありません。

江戸時代の中ごろには、移動して操業する野だたらに対し、高殿に腰を据えて操業する永代たたらが現れます。たたら製鉄が完成の域に達するのは18世紀に入ってからと整理されています[5]。

周りには、技術者の集団が暮らす山内という集落ができました[3]。島根県雲南市の菅谷たたら山内は、1751年に田部家が設け、18世紀から20世紀にかけて130年近く操業しました。高殿が日本で唯一そのまま残っています。最盛期は年に50〜60回操業し、年に200〜300トンの鉄鋼を生産、1回は3〜4日続きました[6]。

50〜60回に3〜4日をかけると、単純計算では年に150〜240日分に相当します。これは私の計算した目安で、実際に火が入っていた日数は資料にはありません。炉は、人が暮らしながら守り続けるものでした。

ところで、こうして作られた鉄は、全部が同じものだったのでしょうか。

近世の高殿たたらは、砂鉄・木炭・天秤鞴・床釣りを備えた永久的な製鉄施設で、大きいものは10間(約18m)四方になる。屋内の中央に長さ10尺(約3m)ほどの箱形炉を据え、両脇の鞴から各20本程度の送風管を炉に入れた[3]。この寸法は「大きいもの」「ほど」の目安で、全てが同一ではない。周囲には、技術者集団の集落である山内が形成された[3]。

高殿に固定して操業する永代たたらは、江戸時代中期に現れ、場所を移して操業する野だたらと対比される。たたら製鉄が成熟・完成の域に達するのは18世紀に入ってからと整理される[5]。

島根県雲南市の菅谷たたら山内は、1751年に田部家が設け、18世紀から20世紀にかけて約130年近く操業した。高殿が日本で唯一そのまま残る。最盛期は年50〜60回を操業し、年間200〜300トンの鉄鋼を生産、1回は3〜4日連続した[6]。なお1751年は田部家が設けた年であり、操業開始年と同じかどうかは資料からは決められない。

50〜60回×3〜4日は、単純計算で年150〜240日分に相当するが、これは筆者の算出した目安で、実際に火が入っていた日数とは区別する。それでも、これだけの操業を支えるには、床と炉の維持に人手が欠かせなかったと想像できる。ところで、この施設で作られた鉄は、1種類ではなかった。

6. おなじ ろでも、つくる てつは ちがったの?

6. 同じ炉でも、ねらう鉄で使い方が分かれた「銑押し」と「鉧押し」

6. 銑押しと鉧押し ── 4昼夜と3昼夜、銑押しが主流だった近世の鉄生産

おなじ たたらでも、ねらう てつに よって やりかたが わかれました。「鉧けら」と いう かたまりから はがねを とる やりかたと、なべや かまの もとに なる「ずく」を つくる やりかたです[5]。

はがねを とる ほうは 3日 3ばん、ずくは 4日 4ばん ほど ふき つづけます[7]。いちばん よい はがねは「玉鋼たまはがね」と いって、日本とうの ざいりょうに なりました。

でも きんせいでは、ずくを つくる やりかたが おもでした[5]。ちゅうごくさんちの さかんな ころは、日本の てつの 8わりほどを つくった、とも つたえられます[8]。

中世以降のたたらには、2つのやり方がありました。ひとつは、銑鉄を作り、大鍛冶場で錬鉄や鋼にする間接法の「銑押し」です。もうひとつは、砂鉄から直接鋼を作る「鉧押し」で、16世紀初めの播磨国の「千種鋼」に始まるとされます[5]。

銑は赤目砂鉄から4昼夜の操業で作り、釜や鍋などの鋳物の材料や、大鍛冶場で釘などの錬鉄の材料になりました。鋼は真砂砂鉄から3昼夜の操業で作り、ケラを砕いて選別します。最上質の玉鋼は日本刀の材料です[7]。

意外なのは割合です。作られた鉄の多くは銑で、鋼をねらう鉧押しは少数派でした[5]。日本遺産の資料は、中国山地のたたら製鉄の最盛期の全国シェアを約8割とし、奥出雲・雲南・安来を中心地としています[8]。

どの国がどちらの方式を取ったかは、今回の材料では分かりません。地域ごとの違いは、産地の名前だけでなく、何を作ろうとしたかの違いだったと読めます。

近世のたたらは、銑押しと鉧押しに大別される。銑押しは銑鉄を作り、大鍛冶場で錬鉄・鋼にする間接法で、中世から近代半ばまで全国で広く行われた。鉧押しは砂鉄から直接鋼を作る方法で、16世紀初頭の播磨国「千種鋼」に始まるとされる[5]。

操業の中身も違う。銑は赤目砂鉄から4昼夜の操業で作り、鋳物(釜・鍋)の材料や、大鍛冶場で釘などの錬鉄の材料になる。鋼は真砂砂鉄から3昼夜で作り、ケラを砕いて選別し、最上質の玉鋼は日本刀の材料になる[7]。

割合にも注意が要る。作られた鉄の多くは銑で、鋼をねらう鉧押しは少数派だった[5]。日本遺産の資料は、最盛期の中国山地のたたらの全国シェアを約8割とし、奥出雲・雲南・安来を中心地とする[8]。8割は最盛期の値で、常時の割合ではない。

出雲・石見・伯耆などの国ごとに、どちらの方式が多かったかは、今回の資料からは割り振れない。ここから言えるのは、同じ中国山地でも、鋼をねらうか、銑をねらうかで炉の使い方が変わったという点までである。

7. 3メートルを、おうちで はかって みよう

7. 3mと18mを、自分の足とひもで測ってみる

7. 数字を身体の大きさに置きかえる ── 炉・高殿・菅谷たたら山内の資料案内

3メートルの ひもを つかって、おうちの ろうかや へやに ならべて みましょう。ここから ここまでが、えどじだいの ろの ながさです。じゃまに ならない ばしょで、ものに ひっかけないように してね。

つぎに、がっこうの こうていなどで、おとなと いっしょに あるいて みましょう。18メートルは、おとなの あしで 30ぽ ほどです。たかどのの ひろさが わかります。

しまねけんの すがやたたら さんないを おとずれたい ときは、まず おとずれる まえに こうしきの あんないで ひらいている ひを たしかめて ください。

長さ約3mは、家の廊下や部屋に、ひもか新聞紙のつなぎ合わせで置いてみると実感できます。炉の高さ(110cm)も、台の上のものと比べると、胸の高さくらいです。人や物にぶつからない場所で、広げすぎないように測ってください。

高殿の10間(約18m)は、公園や校庭で、大人が歩幅60cmくらいで歩くと30歩ほどです。まわりの安全を確かめて、保護者と一緒に行ってください。

実際の高殿は、島根県雲南市の菅谷たたら山内に残っています。公開や見学の条件は変わることがあるので、行く前に自治体や施設の最新の案内を見てください。国土交通省の多言語解説文データベースの「菅谷たたら山内」の項は、こうした資料の入口になります[6]。

資料を読み比べるときは、天秤鞴の年や産地の割り振りのように、出典で食いちがう点を探すのもおもしろいと思います。炉の大きさは、一つの数字ではなく、資料ごとの幅も含めて見る必要があります。

数字を身体で測ると、炉の大きさが違って見える。長さ約3mのひもを部屋に置き、高さ110cmは机や台と比べる。10間(約18m)は、歩幅60cmなら30歩ほどである。安全な場所で、保護者と一緒に行う。

資料は、公的な解説を主に読むと確かめやすい。炉の寸法は鉄の道文化圏[1]、高殿と床釣りは岡山県[3]、菅谷たたら山内は国土交通省[6]、天秤鞴の効果は島根県[4]が出している。食いちがいが残る点(天秤鞴の起源、炉の寸法の幅、国ごとの銑押し・鉧押しの割り振り)は、それぞれの原資料に当たって比べる価値がある。公開・見学の条件は変わるので、現地を訪ねる前に最新の案内を確認する。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文の参照番号は、この一覧の順です。数字の根拠は、公的機関の解説を主に使い、読み物の資料は補助にしました。

  1. 鉄の道文化圏推進協議会「たたら」の発祥と発展 https://tetsunomichi.gr.jp/history-and-tradition/tatara-outline/part-1/ (炉の大きさの変化)
  2. 鉄の道文化圏推進協議会 たたらの歴史 https://tetsunomichi.gr.jp/history-and-tradition/tatara-history/part-1/ (地下構造・鉄穴流し)
  3. 岡山県 高殿たたら(大成山たたら遺跡群) https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/636249.html (高殿・床釣り・山内)
  4. 島根県「いにしえからの挑戦状 第1章 問題・正解」 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/event/challange/challange_Q-1.data/dai1shouquestion-answer.pdf (天秤鞴の効果)
  5. Wikipedia「たたら製鉄」 https://ja.wikipedia.org/wiki/たたら製鉄 (天秤鞴・永代たたら・銑押しと鉧押し)
  6. 国土交通省 多言語解説文データベース 菅谷たたら山内 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R5-00278.html (菅谷たたら山内の操業)
  7. コトバンク「鉧」 https://kotobank.jp/word/鉧 (銑と鋼の作り分け・割合)
  8. 島根県「御縁旅」日本遺産ページ https://www.pref.shimane.lg.jp/tourism/tourist/kankou/joho/goentabivol18-hakko.data/10_11.pdf (最盛期のシェア)
  9. 鳥取県西部・たたら炉による鉄づくり https://relaxan-tottori.com/blog/2024/12/1872/ (高温と湿気、「一床、二土、三村下」)

なおした ところ

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