1. ねだんひょうに、かみは のって いるの?
1. 平安の「値段表」に、紙は載っているのか
1. 996年の評価額には、紙がない
へいあんじだいにも、ものの ねだんを きめた ひょうが ありました。ぬすまれた ものに つける ねだんです[5]。
ゆみ 1ちょうが 30もん。ぬの 1たんが 75もん。きぬ 1たんは 1かん(1000もん)。むぎや いねの ねだんも のって います。でも、かみの ねだんは ありません。
だから、かみが いくらだったかは、この ひょうでは わかりません。では、ほかの ところに ヒントは ないのでしょうか。
平安時代の値段が分かる資料に、盗まれた品物につけられた公定の評価額があります。長徳2年(996年)の例では、弓1張が30文、麻布1反が75文、絹1反が1貫文(1000文)、麦1石が500文、稲1束が50文です[5]。
ところが、この一覧に紙の値段は載っていません。つまり、この資料から「紙は米何升分」といった計算はできません。
値段の数字が見つからなくても、紙の値打ちを知る道はあります。人々が紙をどう扱ったかを見ることです。まず、有名な紙の贈り物の場面から読んでみましょう。
平安時代の物価を示す資料のひとつに、検非違使庁が回収した盗品につけた公定の評価額がある。長徳2年(996年)の例では、弓1張が30文、麻布1反が75文、絹1反が1貫文、麦1石が500文、稲1束が50文と記録される[5]。なお、近世以前の1升は現在の約0.4升とする説もあり、容量の値を今の感覚に直すときは注意が要る。
ここで注目したいのは、この一覧に紙の項目がないことだ。したがって、紙1枚を米や布に換算する根拠は、少なくともこの資料にはない。後世の資料に紙の価格が出ることはあるが、それを平安時代にあてはめるのは危うい。
では、価格がなくても値打ちを測る手がかりはないのか。人々が紙をどう扱ったかを調べるのが、次善の道になる。最も有名な場面から見ていく。
2. 清少納言は、もらった かみに なにを かいたの?
2. 清少納言は、もらった紙に何を書こうとしたのか
2. 『枕草子』の跋文に、紙を贈られた清少納言が登場する
『枕草子』を かいた 清少納言の はなしです。おわりの ぶぶんに、こんな ばめんが のって います[1]。
ある日、おきさきの 中宮の まえに、かみが ささげられて いました。中宮は 「この かみに、なにを かこうかしら」と いいました。清少納言は 「まくらに しましょう」と こたえました。すると 中宮は 「では あげましょう」と、かみを くれたのです。
この やりとりが、『まくらのそうし』という なまえの もとに なったと いわれます。ただし、どう よむかは いろいろな せつが あります。
かみを もらうことが、うれしい おくりものに なる。そんな ことが あったのです。
『枕草子』の最後には、書名の由来を思わせる場面が出てきます。中宮の前に、内大臣(伊周)が差し上げた紙がありました。中宮が「これに何を書こうか」と言うと、清少納言は「枕にしましょう」と答えます。「それでは」と、中宮は紙をその場で清少納言に与えました[1]。
この場面が書名の由来とされていますが、「枕」が何をさすかなど、解釈には諸説があります。ここで大事なのは、紙が贈り物としてやりとりされていたことです。
ただし、この文章そのものに「紙は高価だった」とは書かれていません。値打ちを知るには、紙がどこで、どれだけ作られたかも見る必要があります。
『枕草子』の跋文には、紙が贈られる場面がある。中宮の前に、内大臣(伊周)が差し上げた紙があった。中宮が「これに何を書かまし」と尋ね、清少納言が「枕にこそはべらめ」と答えると、「さば得てよ」と、紙は清少納言に下賜された[1]。これが書名の由来とされるが、「枕」の意味をめぐって解釈は分かれている。
注意すべきは、この場面が「紙は高価だった」ことを直接示すわけではない点だ。分かるのは、紙が内大臣から中宮へ、中宮から女房へと贈り物の形で動いたことまでである。値打ちの大きさを見積もるには、別の資料が要る。
そこで、紙の作られ方に目を向ける。都の紙は、どこで、どれほど作られていたのか。
3. かみは、どこで つくって いたの?
3. 都の紙は、役所の工房で漉かれていた
3. 紙屋院と『延喜式』の規定
かみを つくる 場所は、おやしきの 中に ありました。紙屋院という、くにの こうぼうです[2]。800年ごろに できたと いわれます。
ここでは、おやくしょで つかう かみを つくって いました。のちの 927年の きまりでは、まいとし 2まんまいほど(まいとも ちょうとも いわれます)を つくる ことに なって いたと いわれます[3]。
くにが こうぼうを もって、きまった かずを つくる。すくなくとも、おやくしょの かみは、けいかくして じゅんびして いた ことが わかります。
4. つかい おわった かみは、どうしたの?
4. 書き終えた紙を、溶かして漉き直す
4. 宿紙 ── 反故紙を漉き返す習慣
つかい おわった かみは、すてません。みずに つけて とかし、もういちど かみに しました[4]。
この かみを 宿紙と いいます。すみが すっかり ぬけない ので、うすい はいいろに なります。紙屋院で たくさん つくられたので、「かみやがみ」とも よばれました。
886年の きろくには、こんな はなしも あります。ある おきさきが、なくなった ひとが かいた ものを とかして、おきょうを うつす かみに しました[2]。
かみは だいじだから、つくりなおして つかう。それが ふつうの ことだったと、しらべた ひとは かいて います。
使い終わった紙(反故紙)は、水でほぐして漉き直され、再生紙になりました。これを宿紙といいます。墨が完全には抜けず、薄い墨色に仕上がります。官営の紙屋院で多く漉かれたので、紙屋紙とも呼ばれました[4]。
『三代実録』の仁和2年(886年)には、清和天皇の女御だった藤原多美子が、故人の書いた文書などを漉き返して写経用の紙にし、法華経を写して供養したと記されています。紙が貴重だったため、漉き返して再利用することは一般的だったと、研究者の田中稔は述べています[2]。
捨てずに作り直す。それは節約であると同時に、故人の文字を新しい紙に生かす気持ちの表れでもあったのでしょう。こうして紙の価値は、値段の数字よりも、使い方の工夫に表れています。
では、その官営の工房は、その後どうなったのでしょうか。
使用済みの紙(反故紙)を漉き返した再生紙が宿紙である。墨が完全に抜けず、薄墨色になる。官営の紙屋院で多く漉かれたため、紙屋紙とも呼ばれた[4]。
漉き返しの具体例が、『三代実録』仁和2年(886年)の記事にある。清和天皇の女御藤原多美子が、故人の書いた文書などを漉き返して写経料紙とし、法華経を書写して供養した。田中稔は、紙の希少性から漉き返して再利用することは一般的だったとみる[2]。
この例では、再生紙は「質の落ちる代用品」というより、故人の手跡を溶かし込んだ紙を供養に用いるという意味を持っていたように読める。ただし、これは一例であって、すべての宿紙に同じ意味があったとは言えない。
再生が当たり前になるほど紙が貴重だったとすれば、その生産の中心だった紙屋院は、どう変わっていったのか。
5. こうぼうの かみは、そのあと どうなったの?
5. 官営の工房が衰え、地方の紙が都に入ってきた
5. 紙屋院の変質と、地方紙の流入
1000年を すぎて、11せいきの おわりに なると、紙屋院は 宿紙だけを つくるように なりました[2]。
そのころ、とおい いなかで つくられた かみを、あきんどが みやこに もって くるように なりました。やがて、そうした かみが やくしょの かみにも なって いきました。
むかしは、くにが つくる かみが 中心でした。それが、いろいろな 場所から くる かみに うつって いったのです。
11世紀末になると、紙屋院は宿紙だけを漉くようになりました。公用紙の生産が縮むと、地方で作られた陸奥紙などが商人らによって京都に持ち込まれ、公用紙に代わっていきました[2]。
紙屋院の公用紙が減り、地方産の紙が京都に持ち込まれるようになったのです。紙の入手のしかたは、少しずつ変わっていきました。
平安時代の紙の値段そのものは、こうして分からないままですが、紙のやりとりのようすは、資料から少しずつ見えてきます。
11世紀末には、紙屋院は宿紙のみを漉くようになった。公用紙の生産が縮むと、地方産の陸奥紙などが商人らによって京都に持ち込まれ、公用紙に取って代わった[2]。このため、紙屋院の公用紙が減り、地方産の紙が商人を通じて京都に入るようになったと読める。
なお、宿紙の使い道について、天皇の命令を伝える綸旨が後に宿紙で書かれた、という話がある。ただし、現存最古の綸旨(天喜2年・1054年、後冷泉天皇)は白紙で、宿紙の使用はそれ以降とされる[2]。「綸旨は宿紙に書く」という説明を誤りとする辞典もあり、平安の綸旨がすべて宿紙だったとは言えない。
平安時代の紙の値段そのものは、こうして分からないままである。それでも、贈り物としての動き、官営工房の生産規定、漉き返しの習慣を重ねると、紙が気軽に使い捨てられる物ではなかったことの輪郭は見えてくる。
6. かみの ねうちを、うちで たしかめよう
6. 身の回りの紙で、昔の人の気持ちを想像する
6. 原典に当たる ── 跋文を読み、「値段」の資料を探す
おうちの かみを 1まい えらんで みましょう。うらが しろい チラシが あれば、ちょうど いいです。
うらを つかって、メモを かいて みます。むかしの ひとは、かみを つかいきって いました。かんじを ひとつ、ゆっくり かいて みると、かみが ちょっと とくべつに 見えて くるかも しれません。
ほんやさんや としょかんで、『まくらのそうし』の さいごの ぶぶんを さがして みるのも、いいですね。
家にある紙を1枚選び、使い終わったものの裏が白ければ、メモに使ってみましょう。昔の人は、書き終えた紙を溶かして新しい紙にするまで使っていました。自分で裏まで使い切ると、その気持ちが少しだけ想像できるかもしれません。
もう一つは、原典を読むことです。『枕草子』の最後の「跋文」には、紙をめぐるやりとりが書かれています。図書館で現代語訳つきの本を探し、紙をもらった場面を読み比べてみてください。
平安時代の紙の値段は、まだ確かな数字で語れません。その空白を、どんな資料なら埋められるのか。考えてみるのも、面白い問いです。
調べる道すじは二つある。ひとつは『枕草子』跋文の原文に当たり、紙が贈られる場面の言葉を自分で読むことだ。現代語訳だけでなく、「枕にこそはべらめ」のような原文と見比べると、解釈が分かれる理由も見える[1]。
もうひとつは、紙の価格を直接示す一次資料を探すことだ。平安の紙の価格は、確かな資料では言い切れない。国立歴史民俗博物館の物価データベースなどに、紙の取引記録があるかどうか調べる価値はあるが、原データを見ずに数字だけを借りるのは避けたい。
二次資料の数字(紙屋院の年2万張)も、原典と照らして確かめてこそ使える。その作業自体が、歴史の資料を読む練習になる。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
出典について:『枕草子』跋文の原文と解説、文学通信の記事、紙屋院の百科事典項目、コトバンク、斎宮歴史博物館の資料を使った。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。紙屋院の項目は百科事典の要約で、原文との照合はしていない。
- 枕草子(跋文)の原文と解説(個人ブログ)。https://plaza.rakuten.co.jp/togosi/diary/201402050000/ (跋文の紙の場面の原文について。二次資料)
- 『古文書の科学』第1部(文学通信)。https://bungaku-report.com/blog/2023/03/11-1025.html (紙屋院、漉き返し、宿紙、地方紙の流入、綸旨について。二次資料)
- 紙屋院(Wikipedia 日本語版)。https://ja.wikipedia.org/wiki/紙屋院 (『延喜式』の生産規定の要約について。二次資料)
- コトバンク「宿紙」(世界大百科事典ほか)。https://kotobank.jp/word/%E5%AE%BF%E7%B4%99-528172 (宿紙の性質と別名について)
- 斎宮歴史博物館「第5話 平安時代の『公定価格』?」。https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/senwa/journal105.html (996年の盗品の評価額について)
なおした ところ
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