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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

いといがわから しずおかまで つづく、日本を 東と 西に わける 線って なに?

糸魚川の断層から歩いて10分、海底噴火の跡が見える ──日本を東西に分ける線は、どこまで一本なのか

糸魚川-静岡構造線 ── 約3億年前と約1,600万年前の地層が接する断層と、「東西日本の境界」をめぐる見方の幅

分野:自然

にいがた県の いといがわ市には、大きな だんそうを 見られる 場所が あります。だんそうを はさんで、約やく 3おく年まえの 地層ちそうと 約やく 1600万年まえの 地層ちそうが、となりどうしに ならんで います。

そこから 東へ あるいて 10ぷんほどで、うみの 中で できた 石も 見られる そうです。どうして 山の ほうに うみの あとが あるのでしょう。この 線の ふしぎと、日本を 東と 西に わける「さかいめ」の はなしが わかります。

新潟県糸魚川市の大断層は、約3億年前の地層と約1,600万年前の地層が隣り合う場所として知られています[1]。そこから東へ歩いて10分ほどで、海の底の噴火でできた枕状溶岩にも出会えます[1]。

山あいを歩いているのに、なぜ海の底の跡が見つかるのでしょうか。この線が日本列島の東西を分ける「境目」と呼ばれる理由と、その境目が実は一本の線で言い切れないことが分かります。

糸魚川市の断層露頭では、約3億年前の地層と約1,600万年前の地層が接しており、約2億8千万年ぶんの時間差が数歩で見える(引き算による概算)[1]。断層から東へ約10分歩くと、水中噴火の産物である枕状溶岩があり、かつてフォッサマグナが海底だったことを示す[1]。

なぜ内陸にその跡があるのか。糸魚川-静岡構造線とフォッサマグナの関係、ヒスイの産地としての意味、そして「東西日本の境界」が地質学の中でも一本線に収まらない理由が分かる。

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1. となりどうしの 地層ちそうは、なんおく年 ちがうの?

1. 断層をはさんで、約2億8千万年ぶんの岩が隣り合う

1. 糸魚川の大断層 ── 約3億年前と約1,600万年前の地層の接触

いといがわ市の だんそうの 前に 立つと、右と 左で 地層ちそうの ようすが ちがいます。ひとつは 約やく 3おく年まえ、もうひとつは 約やく 1600万年まえの ものだと いわれて います[1]。

この 2つの 年の ちがいは、約やく 2おく8000万年です。1ページが 100万年の 本が あるとしたら、280ページぶんの 時間が、たった 1つの だんそうの 左右に あることに なります。ただし、これは 時間の ながさを 見やすくする ための たとえで、本当に ページが あるわけでは ありません。

この だんそうは、日本の ちしつを 東と 西に わける 大きな だんそうの 一部です。いまは 国が まもる てんねんきねんぶつにも なって います[1]。

では、この だんそうから 東へ 歩くと、なにが 見えるのでしょう。

糸魚川市のフォッサマグナパークでは、大断層の両側に、約3億年前の地層と約1,600万年前の地層が隣り合って見られます。新潟県の案内は、この2つの地層の違いを観察できる場所だと紹介しています[1]。

3億年と1,600万年の差は、引き算で約2億8千万年です。ページ数にたとえるなら、1ページが100万年の本の280ページ分が、断層をはさんだ左右の間にあることになります。ただし、これは時間の長さを見やすくするためのたとえで、間の時代の地層がここに並んでいるという意味ではありません。

この断層は、日本列島の地質を東西に分ける巨大な断層で、フォッサマグナと呼ばれる地帯の西の端にあたります[1]。2021年3月には国の天然記念物に指定されました[1]。

では、この断層から東へ歩くと、何が見えるのでしょうか。

糸魚川市の断層露頭は、約3億年前の地層と約1,600万年前の地層が断層をはさんで接する場所で、新潟県は2つの地層の違いを観察できる見学地として案内している[1]。両者の年代差は引き算で約2億8千万年、比にすると約19倍(3億÷1,600万≒18.75)になる。数字はどちらも概数で、年代の幅は資料によって異なる。別の解説には約4億年前とするものもあるが、本稿は県の約3億年前に従う。

この断層は、日本列島の地質を東西に分ける糸魚川-静岡構造線の一部で、フォッサマグナの西端をなす[1]。断層露頭は2021年3月に国の天然記念物に指定された[1]。

ここまでは、年代の異なる岩が隣り合うという「地層どうしの距離」の話だった。では、この断層から東へ歩くと、何が現れるのか。

2. 山の ちかくで、どうして うみの 石が 見つかるの?

2. 断層から東へ10分、海の底だった証拠に出会う

2. 枕状溶岩 ── 水中噴火が示す、フォッサマグナのかつての海底

だんそうから 東へ 10ぷんほど あるくと、「まくらじょうようがん」という 石が 見られます[1]。ふつうの 溶岩ようがんとは ちがって、水の 中で ふき出した 火山かざんから できる ものです[1]。

水の 中で できると いう ことは、この あたりが むかしは うみの 海底かいていだったと いう ことです。この あたりは 「フォッサマグナ」と よばれて います[1]。

いまは 歩いて 行ける 場所に、むかしの うみの そこの あとが のこって いるのです。

この 場所の 西がわには、もっと ふるい 石が あります。むかしの 人が たからものに した 石です。

断層から東へ歩いて10分ほどのところで、枕状溶岩を見学できます[1]。枕状溶岩は水中の噴火でできるもので、この場所がかつて海の底だったことを学べる、と新潟県は案内しています[1]。

いまは陸の上で、歩いて行ける距離にあります。それでも、石の形が水中の噴火を示すなら、ここがフォッサマグナと呼ばれる大きな溝の中で、昔は海だった場所だと理解できます。

約3億年前の岩がある断層から歩いて行ける距離に、海底噴火の跡もあります。時代もできた場所もまるで違うものが、この一帯に並んでいます。

では、古いほうの西側には、何があるのでしょうか。そこには、人が5,000年前から使っていた石があります。

断層から東へ徒歩約10分の地点で枕状溶岩が見られ、新潟県はこれを、水中噴火の産物であり、かつてフォッサマグナが海底であったことを示すものとして案内している[1]。枕状溶岩は水中で固まった岩なので、できた当時、その場所は水に覆われていたと読める。

ただし、この枕状溶岩がいつの噴火かは、今回使う資料に書かれていない。断層の東側の約1,600万年前の地層と同じ時期とまでは、ここでは言えない。

見学の目安となる「10分」は県の案内の記述であり、歩く速さ次第で変わる。大切なのは、断層という過去の境界のすぐ隣に、別の時代の海の記録が残っている点だ。

断層の西側には、これとは別の古い岩が広がる。しかも、人が手に取って加工した跡のある岩だ。

3. 5おく年まえの 石を、むかしの 人は どうしたの?

3. 5億年前にできたヒスイを、縄文の人は飾りに仕立てた

3. 糸魚川のヒスイ ── 約5億年前の石と、約5,000年前の加工・流通

いといがわの 西がわには、とても ふるい 石が あります。その 1つが、ヒスイです。ヒスイは 約やく 5おく年まえに できた 石だと いわれて います[6]。

この 石を、縄文じょうもんの 人たちは、約やく 5000年まえに、かざりに しました。いといがわの いせきでは、ヒスイの かざりを つくった あとが たくさん 見つかって います[6]。かざりは、日本の いろいろな ところや、海を こえた ちょうせんはんとうにも ひろがりました[6]。

5おく年は、5000年の 10万ばいです。石が できてから 人が 手に とるまでも、人が 手に とってから いままでも、とても 長い 時間なのです。ただし、人が その 石を えらんだ りゆうは、わかって いません。

いまは、こたきがわ(こたきがわ)の かわらでは、ヒスイを とる ことが きんしです[7]。ながれた ヒスイは 海の 岸に うちあげられて、そこで さがせる そうです。

では、この 線を はじめて 大きく 見つけたのは だれでしょう。

糸魚川の西南日本側には、古生代・中生代の古い岩石が分布します。約5億年前のヒスイと、約3億年前の石灰岩でできた明星山や黒姫山が、その代表です[6]。糸魚川は、水深約2,000mの海底から標高約3,000mの山々まで、高低差が5,000mにもなる急な地形でもあります[6]。

このヒスイを、縄文の人々は加工して使いました。糸魚川市の大角地遺跡からは、縄文時代前期(約6,500年前)のヒスイ製の敲石が出ています。長者ケ原遺跡や寺地遺跡では、縄文時代中期(約5,000年前)に、ヒスイで作った装飾品の加工が盛んだった跡が見つかっています[6]。加工された品は日本各地や朝鮮半島にまで広く流通しました[6]。

ここで注意したいのは、2つの年代が別の話だということです。ヒスイの石ができたのが約5億年前、人が使いはじめたのが約6,500年前から5,000年前です。5億年は5,000年の10万倍にあたり、人類の歴史は石の歴史のごく最後にしか出てきません。なぜ縄文の人たちがヒスイを選んだのかは、手元の資料からは分かりません。

いま、小滝川ヒスイ峡は1956年から国の天然記念物で、河原からの採取は禁止されています。流れ出たヒスイは姫川を通って海岸に打ち上げられ、「ヒスイ海岸」で探せます[7]。

こうした古い岩と海底の跡が並ぶ大地を、はじめて「日本列島を東西に分ける大きな溝」だと見抜いたのは、ある外国人でした。

構造線の西南日本側にあたる糸魚川には、古生代・中生代の岩石が分布する。約5億年前のヒスイや、約3億年前の石灰岩からなる明星山・黒姫山がその例で、水深約2,000mの海底から標高約3,000mの山地まで、高低差約5,000mという急峻な地形をなす[6]。

人がこの石を使った時期は、石ができた時期とは別である。大角地遺跡では縄文時代前期(約6,500年前)のヒスイ製敲石が、長者ケ原遺跡や寺地遺跡では縄文時代中期(約5,000年前)のヒスイ製装飾品の加工の跡が出ており、加工品は日本各地や朝鮮半島へ広く流通した[6]。石の生成(約5億年前)と利用(約5,000年前)を単純に割ると、約10万倍の開きがある。

なぜ縄文の人々がこの石を選んだのかは、使った資料に記述がなく、推測は避ける。

現在、小滝川硬玉産地(小滝川ヒスイ峡)は1956年に国の天然記念物に指定され、河原からの採取は禁止されている。流出したヒスイは姫川を経て海岸に打ち上げられ、「ヒスイ海岸」と呼ばれる一帯で探せる[7]。

こうした古い岩と海底の痕跡が並ぶ大地を、一つの構造として最初に捉えたのは、お雇い外国人の地質学者だった。

4. 日本の 大きな みぞを 見つけた 人は だれ?

4. 馬で東京を出たドイツ人は、八ヶ岳のふもとで何を見たのか

4. ナウマンの旅と命名 ── フォッサマグナ(大きな溝)と矢部の「糸魚川-静岡構造線」

ナウマンは、ドイツから 来た ちしつの 先生です。1875年、明治めいじ8年に 日本へ 来て、東京の 大学で はじめての ちしつ学の 教授きょうじゅに なりました。日本には 10年 いました[3]。

その年の 11月4日の あさ、ナウマンは 馬に のって 東京を 出ました。とうげを こえて、やつがたけの ふもとに つきます。そこで 見た 大きな ながめが、「フォッサマグナ」を 思いついた はじまりだと いわれて います[3]。

フォッサマグナは、「大きな みぞ」と いう いみです。ナウマンは、日本の 地面には 大きな みぞが あって、日本が 東と 西に わかれて いると 考えました[3]。

「いといがわ・しずおか こうぞうせん」と いう 名まえは、ナウマンが つけたのでは ありません。ずっと あとの 1918年に、矢部と いう 人が つけました[4]。

ところで、この 線は、1本の つながった だんそうなのでしょうか。

ナウマンは1854年生まれのドイツ人の地質学者です。1875年(明治8年)に来日し、東京大学の初代の地質学教授となり、日本に10年間滞在しました[3]。

その来日の年、11月4日の早朝に、ナウマンは馬で東京を出ました。碓氷峠を越えて、八ヶ岳のふもとの平沢という集落にたどり着きます。そこで見た大きな眺めが、フォッサマグナの着想の原点になったと言われています[3]。

フォッサマグナはラテン語で「大きな溝」という意味です。ナウマンは、日本列島の地質が、この溝によって東と西に分かれていると示しました[3]。名づけたのもナウマンです。

一方、「糸魚川-静岡構造線」という名前は、ナウマンの来日から43年後の1918年に、矢部という研究者がつけたものです[4]。つまり、溝の名前と、その西の縁の線の名前は、別の人が、別の時代につけました。

では、この線は、ほんとうに一本の断層なのでしょうか。

ナウマン(1854年生まれ)は1875年(明治8年)に来日し、東京大学の初代地質学教授として日本に10年間滞在したドイツ人地質学者である[3]。同年11月4日の早朝、馬で東京を出て碓氷峠を経て八ヶ岳山麓の平沢に至った。そこで見た大きな眺めが、フォッサマグナの着想の原点になったと言われる[3]。伝承の色が濃い話なので、断定はしない。

フォッサマグナはラテン語で「大きな溝」の意で、ナウマンは日本列島が東西に分かれていることをこの概念で示した[3]。名づけたのもナウマンである。

これに対して「糸魚川-静岡構造線」の名は、矢部(1918)による[4]。来日(1875年)から43年後で、溝の名前と、その西縁の線の名前は、別の人が別の時代に与えたことになる。両者は同じ場所を指すのではなく、構造線はフォッサマグナの西の縁にあたる[1]。

では、この「線」は一本の断層と見てよいのか。現在の研究は、この点をむしろ慎重に扱っている。

5. 線は、ほんとうに 1本の だんそうなの?

5. 一本に見える線は、成り立ちのちがう二つの断層がつながったもの

5. 北半分と南半分 ── 傾きも成因も異なる断層の連結

いまの 研究では、この 線は 北の 半分と 南の 半分で、できかたが ちがうと 考えられて います[4]。北の 半分は 東に かたむき、南の 半分は 西に かたむいて います。

この 2つが、いまの 日本が 東西から おされる 力の ために また 動きだし、すわこの ちかくで つながって、1本の 線のように なって います[4]。

フォッサマグナも 北と 南で ちがいます。南の ほうは、海の 中の 火山島が ならぶ 場所が、約やく1500万年まえから 日本の 本州に ぶつかり つづけて できました[4]。いまも いずはんとうが 山に ぶつかって います。

北の ほうが どうやって できたかは、まだ わかって いません[4]。

この 線の 南の はしに ちかい 山梨やまなし県でも、だんそうが 見えます。国の てんねんきねんぶつに なって います[2]。

では、この 線が 日本の 東と 西の ほんとうの さかいめなのでしょうか。

産総研の解説によると、糸魚川-静岡構造線は、傾きも成因もまったく異なる二つの断層が、今の東西に押される力のもとで再び動き、諏訪湖付近の横ずれ断層でつながったものです[4]。北半分は東に傾く正断層、南半分は西に傾く、昔のプレートの沈み込みの境界です[4]。見かけは一本でも、中身は二本のつなぎ合わせだということです。

フォッサマグナも、現在は成因がまったく異なる南北二つの領域に分けて考えられています。南部は、伊豆・小笠原の島弧が約1,500万年前から本州に衝突し続けてできた衝突帯で、今も伊豆半島が丹沢山地に衝突しています。島弧どうしがぶつかるこうした場所は、世界的にも珍しいと説明されています。一方、北部がどうやってできたのかは、まだ分かっていません[4]。

南のほうでは、山梨県早川町の新倉で、西側が黒色粘板岩、東側が凝灰岩類という断層が見えるところがあり、2001年に国の天然記念物に指定されました[2]。

この線は、今も動く可能性のある活断層として、国の地震調査研究推進本部が評価しています。活断層帯としては、北は長野県小谷村付近から南は山梨県早川町付近までの約158kmで、4つの区間に分けて見ています[5]。

地質の線としては一本に見えても、日本の「東西の境目」がほんとうにここなのかは、別の問題です。

産総研の高橋雅紀による整理(2016)では、糸魚川-静岡構造線は、傾斜も成因もまったく異なる二つの断層が、現在の東西圧縮応力場のもとで再活動し、諏訪湖付近の横ずれ断層で連結されたものである[4]。北半分は東に傾く正断層、南半分は西に傾く、過去のプレート沈み込み境界にあたる。一本の線に見えて、成り立ちの異なる二つが連結したものなのだ。

フォッサマグナも同様に、成因が全く異なる南部・北部に分けて考えられる。南部は、伊豆・小笠原弧が約1,500万年前から本州に衝突し続けてできた衝突帯で、現在も伊豆半島が丹沢山地に衝突している。島弧どうしの衝突帯は世界的にも稀とされる。北部の成因は不明であり、「こうしてできた」と言える段階にない[4]。

南部では、山梨県早川町新倉で逆断層が露出し、断層の西側は先新第三系の黒色粘板岩(瀬戸川層群)、東側は新第三系中新統の凝灰岩類で、2001年に国の天然記念物に指定された[2]。

地震調査研究推進本部は、糸魚川-静岡構造線断層帯を、北は長野県小谷村付近から南は山梨県早川町付近までの長さ約158kmの活断層帯とし、4区間に分けて評価している[5]。区間ごとに発生確率は異なり、諏訪湖付近を含む中北部区間は、30年以内に13~30%(評価の幅)とされる。これは区間ごとの値で、線全体の確率ではない[5]。

ここまでの「糸魚川-静岡構造線」は、地質学的な断層の話だった。では、この線が日本の東西を分けているという言い方は、どこまで正しいのか。

6. 日本の 東と 西の さかいめは、ここなの?

6. 岩石で見ると、東西の境目は別の場所にあるという見方がある

6. 東西日本の境界はどこか ── 基盤の岩石から見た議論と、糸魚川の文化的な性格

けんきゅうしゃの 中には、「岩石がんせきで 東と 西を わけると、さかいめは、もっと 東の かんとうへいやの 下に ある」と 考える 人が います[4]。

西日本に ある 石の ならびかたが、かんとうの 山の ほうまで つづいて いるからです。

これは その 人の 考えです。ほかの 考えも あります。でも、どんな ものさしで 見るかで、さかいめが すこし ずれて 見える ことは あるのです。

いっぽう、いといがわの まちは、東と 西の ぶんかが まざる 場所だと いわれて います。むかしは 2本の 大きな 道が まじわり、船の しごとも さかんでした。いろいろな 場所の ことばや ものが、ここを とおりました[6]。

ただし、線が 文化を つくった という わけでは ありません。線と 人の くらしが、おなじ あたりに かさなって いる、ということです。

産総研の解説は、西南日本の地質の帯(三波川帯など)が関東山地では続いていることに注目します。そのため、基盤の岩石から見た東西日本の地質学的な不連続は、糸魚川-静岡構造線ではなく、関東平野の下(利根川中流低地帯付近)にあると論じています[4]。

これは一人の研究者の見解で、ほかの考え方もあります。この線が意味のない線だということでもありません。地質、人の暮らし、ことばなど、何を物差しにするかで、境目の位置は変わりうる、ということです。

一方、糸魚川の町は、東と西の文化が混ざり合う地域だと市の計画は説明しています。加賀街道と松本街道が交わり、廻船業も盛んだったため、広い範囲の情報や文化が行き交いました[6]。

ただし、資料は「構造線が文化の境目を作った」とは書いていません。重なっている、と読むのが無理のない言い方です。

では、自分の住む場所からは、この「境目」はどう見えるでしょうか。

西南日本の地帯配列(三波川帯など)が関東山地で続くため、三波川帯とその北縁の中央構造線が関東山地以北で見つからないことが、東西日本の地質学的不連続の決定的な論拠になる、と高橋(2016)は論じる。したがって、基盤の岩石で見た境界は糸魚川-静岡構造線ではなく、関東平野の下(利根川中流低地帯付近)にあるという[4]。

これは特定の研究者の整理であり、ほかの見方もある。構造線が「偽の境目」だと言っているのでもない。重要なのは、「境界」が何を基準にするかで位置が変わりうる点だ。構造線は、年代の大きく違う地層が接する断層としては、実際に目の前で見える。基盤岩石の連続性という別の物差しをあてたときに、別の位置が浮かぶのである。

糸魚川市の側から見ると、市は東日本と西日本の境界に位置し、様々な東西文化が混在する地域だと位置づけられている。加賀街道と松本街道が交わり、廻船業も盛んだったため、広域の情報や文化が行き交った[6]。

ただし、資料は構造線が文化の境目をつくったとは述べていない。地質の線と人の行き来が同じ場所に重なっている、というのが資料から言える範囲だ。境目の位置は、何を基準にするかで変わりうる。

この読み方を、自分で確かめることはできるだろうか。

7. ちずの 上で、「さかいめ」を さがして みよう

7. 地図の上で、糸魚川から静岡までの「線」と自分の町を結ぶ

7. 出口 ── 地図で線を引く/物差しを替えて境目を探す/原典に当たる

ちずちょうで、いといがわ市と しずおか市を さがして みましょう。2つの 町の 上を とおるように ゆびで 線を たどると、あいだに 長野県の すわこや、山梨やまなし県が あります。

つぎに、自分の すんで いる 町を さがします。線の 東がわ、西がわの どちらに あるでしょう。

もう 1つ、きめ手を 考えて みます。石の ならびかたで 見るのと、くらしの ことばを 見るのとでは、さかいめは おなじ 場所に なるでしょうか。

げんちへ 行くときは、見学の ばしょの あんないを よく 読んで、おうちの 人と いっしょに 行きましょう。

地図帳で糸魚川市と静岡市を探し、2つの市を通るように指で線をたどってみましょう。途中に諏訪湖や山梨県があることが分かります。自分の町がその線の東側か西側かも確かめられます。

次に、物差しを変えて考えます。地質の線、ことば、暮らしのどれで見るかによって、境目は同じ場所になるでしょうか。身の回りで、東と西で違うものを一つ探してみると、「境目はひとつではない」という感覚が分かりやすくなります。

見学に出かけるときは、新潟県の案内ページで、断層の見られる場所と見学のルールを確かめてください[1]。ヒスイ峡の河原では、石の採取が禁止されています[7]。

糸魚川市は、日本で最初のユネスコ世界ジオパークに2009年に認定された町です[6]。大地の成り立ちを学べる場として、各地から人が訪れています。

地図帳で糸魚川市と静岡市を探し、2つの市を通るように指で線をたどり、その線の東と西のどちらに自分の町があるかを見る。次に、物差しを替える。基盤の岩石、ことば、暮らしの行き来のどれを基準にするかで、境目の位置が同じになるかを考える。物差しごとに線が少しずつ違えば、「境界」が一つの線でないことを、自分の言葉で説明できる。

原典は、産総研の高橋雅紀「東西日本の地質学的境界【第二話】」(GSJ地質ニュース5巻8号、2016)[4]が、構造線の成因とフォッサマグナの南北差、東西日本の境界の議論を日本語で詳しく述べている。新潟県の見学案内[1]、糸魚川市の文化財保存活用地域計画の概要[6]、地震調査研究推進本部の長期評価[5]も、それぞれの数字の出どころとして読める。

糸魚川市は、2009年に日本で最初のユネスコ世界ジオパークに認定された[6]。現地を訪れる場合は、断層の見学地は県の案内、ヒスイ峡の河原での採取禁止は観光協会の案内を、それぞれ確認してから出かけたい[7]。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:新潟県の見学案内、文化遺産オンライン、大垣市の化石館だより、産総研の地質ニュース、地震調査研究推進本部、糸魚川市の文化財保存活用地域計画の概要、新潟県観光協会の紹介ページを使いました。

  1. 新潟県「フォッサマグナ(糸魚川-静岡構造線)大断層見学」。 https://www.pref.niigata.lg.jp/green2rhythm/370588.html (断層の両側の地層の年代、天然記念物指定、枕状溶岩について)
  2. 文化遺産オンライン「新倉の糸魚川―静岡構造線」。 https://online.bunka.go.jp/db/heritages/detail/207133 (山梨県早川町新倉の断層の露出について)
  3. 大垣市金生山化石館「化石館だより No.100」。 https://www.city.ogaki.lg.jp/cmsfiles/contents/0000000/664/nauman.pdf (ナウマンの来日と旅、フォッサマグナの命名について)
  4. 産総研「GSJ地質ニュース」Vol.5 No.8(2016)高橋雅紀「東西日本の地質学的境界【第二話】」。 https://www.gsj.jp/data/gcn/gsj_cn_vol5.no8_244-250.pdf (構造線の命名、二つの断層の連結、フォッサマグナの南北差、東西日本の境界について)
  5. 地震調査研究推進本部「糸魚川-静岡構造線断層帯」。 https://www.jishin.go.jp/main/yosokuchizu/katsudanso/f041_042_044_itoshizu.htm (活断層帯の長さと区間ごとの評価について)
  6. 糸魚川市文化財保存活用地域計画(概要)。 https://www.pref.niigata.lg.jp/uploaded/attachment/413002.pdf (ジオパーク認定、ヒスイと縄文の加工・流通、東西文化の混在について)
  7. 新潟県観光協会「小滝川ヒスイ峡」。 http://niigata-kankou.or.jp/location/site/detail_41286.html (ヒスイ採取の禁止とヒスイ海岸について)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

  •  初版を公開。
  •  3つの読み方の切り替え構造と各版のヒスイの年代を確認し、約5億年前に統一しました。

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