このサイトは、ほんの入り口です

ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

いぬが かいぬしの かわりに、こんぴらさんへ おまいりに いったの?

犬が飼い主の代わりに参った「こんぴら参り」 ── 旅が自由でなかった江戸の人と、参道のみやげ

「こんぴら狗」の代参と参詣みやげ ── 江戸時代の庶民にとって、金毘羅参りは何だったか

分野:歴史・文化

むかしの 江戸えどの ころ、「こんぴらまいり」と かいた ふくろを くびに かけた いぬが、かいぬしの かわりに 四国しこくの 金刀比羅宮ことひらぐうへ むかう ことが あったと いわれます。

いぬは、ひとり ぼっちで あるいたのでは ありません。どうして、いぬに おまいりを たのむほどだったのでしょう。この きじでは、たびの きまりと、さんどうの おみやげが わかります。

江戸時代、「こんぴら参り」と書いた袋を首にかけた犬が、飼い主の代わりに四国の金刀比羅宮へ向かうことがあったといいます。犬は旅人から旅人へ連れられ、街道筋の人々に世話をされて着いたと、神社の公式サイトは紹介しています。

なぜ人は、犬に参拝を託すほどだったのでしょうか。当時の旅のきまり、785段の石段、参道で生まれたうちわ・刷り物・飴のみやげから、その手がかりが分かります。

江戸時代、「こんぴら参り」と記した袋を首にかけた犬が、飼い主に代わって金刀比羅宮(香川県琴平町)へ参る例があった。犬は旅人から旅人へ連れられ、街道筋の人々の世話を受けて目的地に着いたと、神社の公式サイトは説明している[2]。

なぜ犬にまで参拝を託したのか。庶民の旅が自由でなかった時代の背景、石段785段と門前町の姿、そして参道で売られたうちわ・刷り物・飴という参詣みやげが、旅の思い出とどう結びついたのかが分かる。

読み方を切り替えられます。画面の上にある「よみかた」のボタンで、小学校低学年むけ・小学校高学年むけ・中学生むけの3つの書き方に切り替わります。むずかしいと思ったら、いつでもやさしい方に戻ってください。選んだ読み方はブラウザが覚えているので、次に別の記事を開いたときも同じ読み方で始まります。

1. いぬは どうやって こんぴらさんに ついたの?

1. 犬はどうやって着いたのか ── 袋を首にかけた「こんぴら狗」

1. 「こんぴら狗」の代参 ── 袋の中身と、犬を支えた人々

くびに かけた ふくろには、かいぬしの なまえを かいた ふだと、じんじゃに おさめる おかねと、たびの ごはんの おかねが はいって いました。

いぬは、たびを して いる ひとに つれられ、つぎの ひとへ、また つぎの ひとへと わたされて いきました。みちの とちゅうの ひとたちも、いぬの せわを したそうです。

むじに おまいりを おえた いぬは、とくべつに「こんぴらいぬ」と よばれました。いまも、金刀比羅宮ことひらぐうには、この いぬを たたえた どうぞうが あると いわれます。

ただし、どの いぬも そうしたわけでは ありません。「こんな ことが あった」と いう おはなしです。

犬の首にかかっていたのは、「こんぴら参り」と記した袋でした。中には、飼い主の名前を書いた木札、神社に納める初穂料、道中の食費が入っていたと、金刀比羅宮の公式サイトは紹介しています[2]。

ここで大事なのは、犬が一匹でてくてく歩いたわけではない、という点です。犬は旅人から旅人へ連れられ、街道筋の人々に世話をされて、目的地に着きました。つまり、見ず知らずの人の親切を、つないでいく旅でした。

お参りを無事に果たした犬は、とくに「こんぴら狗」と呼ばれたそうです[3]。今も境内の高橋由一館の前には、こんぴら狗をたたえた銅像があるとされます[10]。

ただし、こうした代参は「犬が代わりに参ることもあった」という話で、すべての犬ではありません。具体的な日記や記録は、公式ページには示されていません。それでも、犬に袋を持たせて送り出すほど、こんぴら参りは特別な旅だったのでしょうか。当時の旅のきまりを見てみます。

江戸時代の金毘羅参りには、飼い主の代わりに犬が参る「代参」の例があった。犬は「こんぴら参り」と記した袋を首にかけており、袋には飼い主を記した木札、初穂料、道中の食費が入っていた。犬は旅人から旅人へと連れられ、街道筋の人々に世話をされて着いたという[2]。

この話は、犬が一匹で四国まで歩いたという意味ではない。道沿いに世話をする人がいたからこそ成り立つ。犬を次の人へ渡し、食べさせ、先へ送ったのは、旅人や街道の人々だった。無事に参拝を果たした犬は、とくに「こんぴら狗」と呼ばれた[3]。境内の高橋由一館の前には、こんぴら狗をたたえる銅像があるとされる。旅行サイトは石段431段目付近と紹介するが、公式の説明は高橋由一館の前までなので、段数は目安にとどめる[10]。

ただし、江戸時代の具体的な記録(日記や図会など)は、公式ページには示されていない。代参の犬は「いた」とされるが、どれほどの数が、どの道筋を通ったのかは、この資料では分からない。そのため本稿では、「ことがあった」という強さで扱う。では、なぜ飼い主は代参という形を選んだのか。手がかりは、当時の旅のきまりにある。

2. むかしの たびは、どうして おまいりなら よかったの?

2. 旅が自由でなかった江戸で、神社への参拝は例外だった

2. 庶民の旅の制約と「参拝」という例外 ── 神社名の変遷もあわせて

むかしの ひとは、すきな ときに すきな ところへ たびを するのが むずかしかった、と いわれます。

でも、かみさまや ほとけさまに おまいりに いく たびは、ほかの たびより しやすかった、と いわれます。おまいりを りゆうに、たびに 出る ひとも いました。

こんぴらさんは、うみの かみさまとして ひろく しんじられて います。ふねに のる ひとたちも、おまいりに きました。むかしは「こんぴらさん」、いまは「金刀比羅宮ことひらぐう」と いう なまえです。

江戸時代、庶民の旅は自由ではありませんでした。ただし、神仏への参拝は例外として認められていたため、信仰を名目にした旅が増えたと、神社の説明と歴史学の論文はそろって述べています[3][5]。「旅は禁止だった」と言い切るより、「自由ではなかったが、お参りなら出かけやすかった」と読むのが近いでしょう。

では、なぜ金毘羅だったのでしょうか。金刀比羅宮は香川県琴平町の象頭山にあり、農業・殖産・医薬・海上守護と、広い願いに応える神様として信仰されてきました[1]。論文では、瀬戸内海の海上交通の発達が門前町の発展の要因として挙げられています[5]。海を渡る人にとっても、願いごとのある人にとっても、行く理由のある場所でした。

ちなみに、江戸時代の呼び名は「金毘羅大権現」です。明治元年(1868)の神仏分離で琴平神社に戻り、同じ年の7月に「金刀比羅宮」と改まりました[1]。では、そこへ向かう参拝客は、現地で何を目にしたのでしょうか。

犬に代参を託すほどの旅とは、どんな旅だったのか。まず、江戸時代の庶民の旅は自由ではなかった。ただし、神仏への参拝は例外として認められており、そのため信仰に名を借りて各地へ旅をする者が増えたと、神社の公式説明と土居光子の論文(1962)は述べている[3][5]。論文は身分制度の下という文脈で書かれており、「旅は禁止だった」と一括りにはせず、ここでは、「旅は禁止だった」ではなく「旅は自由ではなかった」と表す。

では、なぜ金毘羅が選ばれたのか。金刀比羅宮は香川県琴平町の象頭山にあり、祭神は大物主神と崇徳天皇で、金刀比羅宮は農業・殖産・医薬・海上守護の神として信仰されている[1]。論文は、瀬戸内海の海上交通の発達が門前町の発展の要因になったと指摘している[5]。海に生きる人にも、陸の願いごとをもつ人にも、参る理由があったことになる。

呼び名も時代で変わった。江戸時代は「金毘羅大権現」で、宝暦10年(1760)には「日本一社」の綸旨を得た。その後、明治元年(1868)の神仏分離で琴平神社に復し、同年7月に「金刀比羅宮」と改称している[1]。創建年は伝承のため、ここでは扱わない。さて、参拝客が現地でまず向き合うのは、長い石段である。

3. 785だんの いしだんには、なにが あったの?

3. 785段の石段をのぼると ── 大門・一之坂と門前町のにぎわい

3. 石段785段と一之坂・大門 ── 門前町が栄えた背景

おまいりの ひとは、ながい いしの だんを のぼります。ほんぐうまでは、ぜんぶで 785だん。かたみち 30ぷんくらい かかると、じんじゃは しらせて います。

とくに きゅうな ところが、113だんめから 大もんまでの「いちのさか」です。

むかしの まちは、おまいりの ひとで にぎわいました。ちゃやが たくさん ならび、ひとが たびの つかれを いやして いたようです。

金刀比羅宮の表参道から御本宮まで、石段は全部で785段。片道30分ほどが目安です。113段目から大門までは特に急で、「一之坂」と呼ばれます[4]。

30分を秒にすると1800秒、これを785で割ると、約2.3秒に1段のペースです。休まず登る計算なので、実際はもっとゆっくり、立ち止まる人が多いはずです。

大門は金刀比羅宮の総門で、水戸光圀の兄にあたる高松藩主・松平頼重の寄進と伝えられます。大門から約150メートル続く石畳の道は「桜馬場」と呼ばれます[4]。

江戸時代の門前町は、参詣客でにぎわいました。論文には、文政7年(1824)に茶屋が81軒あり、社領の家の約3分の1が茶屋・酌取・日雇宿だったと書かれています[5]。町の暮らしの多くが、参る人を迎えることで成り立っていたことが分かります。この門前で、人々は旅の記念になるものを求めました。

785段という数字は、どれほどの歩みなのか。公式案内では、表参道から御本宮までの石段は全785段で、片道30分ほどとされる。30分は1800秒なので、785で割ると約2.3秒に1段の計算になる。これは休まず登る場合の目安であり、休憩を入れれば遅くなる。海抜251メートルの御本宮は785段目で、奥社はさらに1368段目にある[4]。

石段の途中には、見どころが並ぶ。113段目から大門までは特に急で「一之坂」と呼ばれ、大門は総門にあたる。高松藩主の松平頼重(水戸光圀の兄)が寄進した。大門から約150メートル続く石畳が「桜馬場」である[4]。一之坂の途中の灯明堂は、船の下梁を利用して建てられた重要有形民俗文化財で、備後国の講中の寄進による。公式の年号は西暦と合わないため、ここでは江戸時代の終わりごろとだけ書く[4]。

こうした参道を歩く人を迎えたのが門前町である。論文によれば、文政7年(1824)には茶屋が81軒もあり、社領家数の約3分の1を茶屋・酌取・日雇宿が占めていた。「81軒」は茶屋だけの数、「約3分の1」は三つの商いを合わせた割合で、数え方が違う[5]。町の経済が参詣客に支えられていたことは、そこから読み取れる。ならば、客は帰りに何を持ち帰ったのか。

4. おみやげは、どんな ものが あったの?

4. 旅を持ち帰る ── うちわと、参道で売られた刷り物

4. 参詣みやげの二つの例 ── 丸亀うちわの起こりと、参道の刷り物

ひとつは、うちわです。むかし、こんぴらさんへ おまいりに きた ひとへの おみやげとして、あかい うちわが つくられたのが はじまりだと いわれて います。

もうひとつは、かみに すった え です。いちのさかの そばの みせが、ぞうの えを すった ものを うって いました。ぞうは、じんじゃの ある 山の なまえ「ぞうずさん」に ちなむと みられて います。

家に かえった ひとは、これを みせながら、たびの はなしを した のかもしれません。

参詣みやげの代表が、丸亀うちわです。江戸時代に、金毘羅参りのみやげとして、朱赤に「丸金」印の渋うちわが作られたのが始まりとされます[7]。起こりは寛永10年(1633)に、金毘羅大権現の別当・金光院の住職が考案した渋うちわともいわれます[8]。年号は二次資料に基づく伝承の強さで読んでください。

もう一つは、紙に刷った品です。飯能市立博物館は、おふだ資料の中に「一ノ坂口 成功堂」と書かれた象の絵の刷り物と、明治39年(1906)発行の「金刀比羅神山略図」があると紹介しています。参道沿いで発行されたみやげ物と考えられ、象は象頭山を指すとみられます。博物館は、こんぴらさん以外にこのようなおふだに似た土産物は見当たらない、とも述べています[6]。

うちわは風を送る道具、刷り物は景色や山を紙に写した品です。どちらも、家に持ち帰って旅の記憶を見直せる点が共通しています。これは、うちわと刷り物を見比べた筆者の考えです。さて、参道にはもう一つ、大きな日傘が目を引く店があります。

参道で何が売られたのか。まず丸亀うちわは、江戸時代に金毘羅参りのみやげとして、朱赤に「丸金」印の渋うちわが作られたのが始まりとされる[7]。起こりについては、寛永10年(1633)に別当・金光院の住職が考案した「男竹丸柄うちわ」という説明もある[8]。ただしこれは二次資料であり、「〜といわれる」の強さで読むべきだ。うちわの作りは別の記事で扱うので、ここでは参詣みやげの一例にとどめる。

もう一つは、紙の刷り物である。飯能市立博物館は、所蔵のおふだ資料のうち「一ノ坂口 成功堂」の象の絵の刷り物と、明治39年(1906)発行の「金刀比羅神山略図」を紹介している。参道沿いで発行されたみやげ物と考えられ、象は象頭山を指すとみられるという。博物館は、こんぴらさん以外にこうしたおふだに似た土産物は見当たらないとも述べる[6]。注意したいのは、これが博物館の推測であること、略図が明治のものであって江戸時代のものではないことだ。

うちわは風を送る実用品、刷り物は山や景色を写した記念品で、性格は異なる。それでも、持ち帰って旅の記憶を見直せる点は共通している。この見方は筆者の読みであり、資料が述べているのは、これらがみやげとして参道で作られ、売られていたと考えられる、というところまでである。参道にはもう一種、独特の売り手がいる。

5. 大もんの さきの、大きな ひがさの みせは なに?

5. 大門から先で商売できる飴屋 ── 日傘の下の「五人百姓」

5. 境内の飴屋「五人百姓」 ── 加美代飴と、資料から言えること

大もんを くぐると、そこから さきは じんじゃの 中です。ここで みせを だして よいのは、「ごにんびゃくしょう」と よばれる 5けんの あめやさんだけだ、と しょうかいされて います。

みちの りょうがわに、大きな ひがさを たてて、「かみよあめ」を うって います。

みなさんも、たべものが すきなら、むかしの ひとが どんな あじを おみやげに したのか、そうぞうして みましょう。

石段をのぼる途中、参道の左右に大きな日傘が並ぶ場所があります。大門から先は境内で、ここで商売を許されているのは「五人百姓」と呼ばれる5軒の飴屋だけだと、旅行サイトは紹介しています[9]。

売られているのは、名物の加美代飴です。そのうちの1軒、池商店は「約780年の歴史」をうたっています。ただし、これは店の自称です。大門の内側での商売が、いつ、どんな経緯で許されたのかは、今回の資料には書かれていません。

それでも、参道は大門を境に「町」から「神社の中」に変わり、売り手まで限られているという事実は、境内の特別さを伝えています。うちわ・刷り物・飴と並べると、持ち帰るものの形はさまざまでも、旅の記憶を連れ帰る工夫が、参道のあちこちにあったことが分かります。

大門から先の参道で、日傘の下に並ぶ店は何か。旅行情報サイトによると、大門から先は境内で、そこで商売を許されるのは「五人百姓」と呼ばれる5軒の飴屋だけである。参道の左右に大きな日傘を立て、名物の加美代飴を売る[9]。

そのうちの1軒、池商店は約780年の歴史をうたっている。ただしこれは店の自称であり、江戸時代から売り手が限られていたのか、いつから許されたのかは、今回の資料では分からない。そのため本稿は、「現在そう紹介されている」という強さで書く。

大門を境に、参道は門前町から神社の境内へと性格を変え、売り手まで限られている。ここまで見てきた犬の代参、旅の例外、石段、うちわ・刷り物・飴を並べると、旅の記憶を家へ持ち帰る形はさまざまだったことが分かる。

6. 785だんは、おうちの かいだんで なんかい ぶん?

6. 785段は、家の階段で何回分か

6. 785段を身近な階段にあてはめる ── 公式サイトで確かめたいこと

おうちで できること

おうちの かいだんの だんの かずを かぞえて みましょう。785を その かずで わると、その かいだんを なんかいぶん のぼれば 785だんに なるか わかります。たとえば 15だんの かいだんなら、785÷15で およそ 52かいぶんです。52かいぶんと わかると、785だんの ながさが すこし じっかんできます。

かいだんは、ゆっくり あるいて、かならず てすりを もちます。はしったり、とんだり しては いけません。

おでかけで できること

もし こんぴらさんに いったら、113だんめの いちのさか、大もん、ひがさの みせを さがして みましょう。

こうしきの じょうほう

金刀比羅宮ことひらぐうの こうしき サイトに、いぬの はなしや あんないが のって います。

今日できること

家や学校の階段で、段数を数えてみましょう。785を段数で割ると、その階段を何回分のぼれば785段になるかが分かります。たとえば15段の階段なら、785÷15で約52回分です。「52回分」と分かると、785段の長さが実感しやすくなります。手すりを持ち、走らずゆっくり行います。

出かけてできること

金刀比羅宮を訪ねるなら、113段目の一之坂、大門、大きな日傘の飴屋、境内の高橋由一館の前を探してみてください。

公式情報

金刀比羅宮の公式サイトには、こんぴら狗や石段の案内がまとまっています。飯能市立博物館の「今月の一品」には、参道のみやげ物の紹介があります。

数字を自分で検算する

公式の片道30分と785段から、約2.3秒に1段という計算が出た。同じ考え方で、家や学校の階段の段数を数え、785÷段数で何回分に当たるかを出してみる。15段なら約52回分で、最後の1回は15段全部ではなく残りの段数だけのぼる計算になる。「52回分」という比較が、785段の長さの実感につながる。階段では手すりを持ち、走らない。この数字は「休まず登る」場合の目安にすぎず、実際は休憩や混雑で変わる。

原典にあたる

代参の犬については、金刀比羅宮の公式サイトの「こんぴら狗」の解説がある。参道のみやげ物は、飯能市立博物館の「今月の一品」(令和7年12月)に、刷り物の写真つきで紹介されている。門前町の姿は、土居光子の論文「近世における讃岐金毘羅門前町の研究」(法政史学15、1962)で読める。

資料どうしを比べると、旅の例外としての参拝、石段をのぼること、持ち帰る物の工夫が、一つの旅の中でつながって見えてくる。次は、ほかの土地の参拝の旅や、そのみやげの話も気になるところである。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文で使った資料。数字・名称・年号は、各資料の記述にもとづきます。

  1. 金刀比羅宮公式「由緒」 https://www.konpira.or.jp/articles/20200814_history/article.htm (祭神・呼び名の変遷)
  2. 金刀比羅宮公式「こんぴら狗」 https://www.konpira.or.jp/articles/20200907_konpira-dog/article.htm (代参の犬と袋の中身)
  3. 金刀比羅宮公式「こんぴら狗守り」 https://www.konpira.or.jp/articles_2024/20241224_collar/article.html (参拝が例外だったこと、こんぴら狗の呼び名)
  4. 金刀比羅宮公式「ご案内」 https://www.konpira.or.jp/articles/20200616_guide/article.htm (石段・大門・一之坂・灯明堂)
  5. 土居光子「近世における讃岐金毘羅門前町の研究」法政史学15(1962) https://hosei.ecats-library.jp/da/repository/00010682/shigaku_15_doi.pdf (旅の事情・門前町の様子)
  6. 飯能市立博物館「今月の一品」令和7年12月 https://www.city.hanno.lg.jp/material/files/group/65/konpirasannoomiyage.pdf (参道の刷り物)
  7. 観光庁多言語解説文DB「丸亀うちわ」 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/H30-01114.html (うちわの始まり)
  8. 和樂web「丸亀うちわ」 https://intojapanwaraku.com/rock/craft-rock/104065/ (うちわの起こりの説)
  9. るるぶ&more「五人百姓 池商店」 https://rurubu.jp/andmore/article/18315 (境内の飴屋)
  10. GLTJP「こんぴら狗」 https://www.gltjp.com/ja/article/item/20810/ (銅像の場所)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

  •  初版を公開。

このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。