このサイトは、ほんの入り口です

ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

くまもとけんの くまで つくる 焼酎しょうちゅうは、どうして お米で つくられ、名前を まもられて いるの?

柱の落書きに残る「焼酎」── 球磨焼酎はなぜ米で造られ、名前を守られるのか

球磨焼酎と「焼酎」最古の落書き(1559年)── 米を使う理由の説明と、地理的表示「球磨」(1995年)

分野:歴史・文化

1559ねんごろ、鹿児島かごしまけんの 神社で、大工さんが はしらに こっそり もんくを かきました。「ここの 家の 人は けちで、しごとの あいだ、焼酎しょうちゅうを いっぱいも のませて くれなかった」。この らくがきが、日本で いちばん ふるい 「焼酎しょうちゅう」の もじだと いわれて います[1]。

この 話から、お米で つくる 球磨くま焼酎しょうちゅうの 話が はじまります。どうして お米なのか、どうやって 名前が まもられて きたのかが わかります。

約470年前、神社の柱に大工が「焼酎」と書き残しました。日本で「焼酎」という文字が最初に確かめられる記録だといわれます。内容は、施主がけちで、工事の間一度も焼酎を飲ませてくれなかった、という趣旨だと伝わっています[1][2]。

この落書きが見つかった場所と、いまも米で焼酎を造り続ける熊本県の人吉球磨とは、どうつながるのでしょうか。米を使う理由、技術の来た道、「球磨」という名前の守られ方が分かります。

「焼酎」の文字の記録として日本最古とされるのは、1559(永禄2)年ごろの、鹿児島県の神社の柱に大工が書いた落書きである。内容は、施主がけちで工事の間一度も焼酎を飲ませてくれなかったという趣旨だと伝わる[1][2][3]。

場所は鹿児島県なのに、なぜ熊本県の球磨焼酎の歴史に登場するのか。米で造る理由、蒸留技術の伝わり方をめぐる説、地理的表示としての「球磨」(1995年指定)までが分かる。確かな記録と、説にとどまる部分とを分けて読む。

読み方を切り替えられます。画面の上にある「よみかた」のボタンで、小学校低学年むけ・小学校高学年むけ・中学生むけの3つの書き方に切り替わります。むずかしいと思ったら、いつでもやさしい方に戻ってください。選んだ読み方はブラウザが覚えているので、次に別の記事を開いたときも同じ読み方で始まります。

1. 大工さんの もんくが、どうして だいじなの?

1. 大工の愚痴が「焼酎」最古の記録になった

1. 柱の落書きはいつ見つかり、何が書かれていたのか

1954ねん、鹿児島かごしまけんの 郡山八幡神社こおりやまはちまんじんじゃで、本でんを ばらして なおす 仕事が ありました。そのとき、はしらの 中から 大工さんの らくがきが でて きました[1]。

その らくがきが かかれたのは、1559ねんごろです。みつかった 1954ねんより、400ねんいじょう まえです。「焼酎しょうちゅう」の もじが 入って いて、これが 日本で いちばん ふるい 記ろくと されて います[1][3]。

大工さんは、おさけを のみたかったのでしょう。その きもちが、400ねんいじょう たって、しらべる ヒントに なりました。

でも この 神社は 鹿児島かごしまけんです。球磨くまは 熊本くまもとけんです。どうして 球磨くまの 話に なるのでしょう。

1954(昭和29)年、鹿児島県伊佐市の郡山八幡神社で、本殿の解体修理が行われました。そのとき、本殿の柱から、大工が書いた落書きが見つかりました[1]。

そこに「焼酎」の文字があり、これが日本で最古の記録とされています。国税庁の年表にも、永禄2(1559)年に大口の郡山八幡神社の落書きへ「焼酎」の文字が書かれた、と載っています[3]。

内容は、施主がけちで、工事の間一度も焼酎を飲ませてくれなかった、という趣旨だと伝わっています。ただしこれは言い伝えの要約で、原文をそのまま写したものではありません[2]。

職人が柱の見えにくいところへ書き残した小さな不満が、何百年もたって酒の歴史の手がかりになりました。けれども、見つかったのは鹿児島県です。熊本県の球磨とは、どうつながるのでしょうか。

1954(昭和29)年、鹿児島県伊佐市(旧大口市)の郡山八幡神社で本殿の解体修理が行われた際、柱から大工の落書きが見つかった。そこに書かれた「焼酎」の文字が、文字記録として日本最古とされる[1]。国税庁の年表も、永禄2(1559)年の項に、大口郡山八幡神社の落書きへ「焼酎」の文字が書かれたことを載せている[3]。

内容については、施主がけちで、工事の間一度も焼酎を飲ませてくれなかったという趣旨が伝わる。ただしこの文面は、組合のサイトなどが紹介する言い伝えの要約であり、原文の逐語ではない[2]。現物の文面を直接読んで確かめた資料は、今回の材料の中にはない。そのため本稿では、「趣旨」として扱う。

落書きの内容が伝わるとおりなら、少なくとも書き手は焼酎を知っていたことになる。ただし、これだけで焼酎がいつ始まったかは決まらない。書かれた場所は鹿児島県であり、熊本県の球磨とのつながりは、別の資料から組み立てる必要がある。

2. 鹿児島かごしまの 神社なのに、どうして 球磨くまの 話?

2. 落書きは鹿児島県なのに、なぜ球磨の歴史に出てくるのか

2. 大口と球磨をつなぐ相良氏の領地

この 神社の ある 大口の あたりは、そのころ 相良氏さがらしという 武士ぶしの 家の 力が およぶ ところでした[4]。球磨くまも、江戸えどじだいまで 相良氏さがらしの とちでした[4]。

だから、同じ 家の とちの 中で、おさけの つくりかたも ひろがって いたのかも しれません。ただし、球磨くまが いちばん さいしょ、とまでは いえません。

では、そのころの おさけは、なにから つくって いたのでしょう。外国から きた 人の 目が、ヒントを のこして います。

鍵になるのは、相良氏という戦国時代の大名家です。落書きが書かれた1559年ごろは相良氏の最盛期で、領地は今の県境を越え、鹿児島県の大口の周辺にまで及んでいました[4]。

球磨も江戸時代まで相良氏の領地でした。そのため、焼酎の造り方は球磨にも早くからあっただろう、と考えられています[4]。

注意したいのは、落書きの場所が鹿児島県だという点です。落書きがあるから球磨が発祥だ、という話にはなりません。分かっているのは、同じ大名家の領地の中で、焼酎を知っている人がいたらしいことまでです。

では、そのころの焼酎は、何から造られていたのでしょうか。手がかりは、外国から来た人の報告にあります。

落書きの場所が鹿児島県なのに球磨が語られるのは、当時の領地の区切りが今の県境とちがうからである。1559年ごろは相良氏の最盛期で、高橋酒造の解説によれば、大口周辺も相良氏の領地だった。球磨も江戸時代まで相良氏の領地だった[4]。

この点から、焼酎の技術は相良氏の勢力圏で早くから知られていたとみられる。「みられる」とするのは、これが直接の記録ではなく、領地の広さからの推測だからだ。落書きの場所は鹿児島県で、落書きがあるから球磨が発祥だとは言えない[4]。

では、そのころの焼酎は何から造られたのか。ここで、日本人自身の記録ではなく、外国人の観察が手がかりになる。

3. 外国の 人は、日本の おさけを どう 見たの?

3. ポルトガル商人が見た「米から造る蒸留酒」

3. 1546年の報告に出てくる「米から造る蒸留酒」

落書きより 13ねん まえ、1546ねんに ポルトガルの 商人が 鹿児島かごしまの あたりに きました。アルヴァレスと いう 人です[1]。

この 人は、日本の 人が お米から つくる おさけを ふつうに のんで いる、と 知らせて います。この おさけは、「オラーカ」と よばれて いました[1][2]。

つまり、そのころ お米で つくる おさけが、すでに あった ようです。では、球磨くまでは いつから 米を つかって きたのでしょう。

落書きより13年早い1546年、ポルトガルの商人ジョルジェ・アルヴァレスが薩摩に上陸しました。彼は、日本人が米から造る蒸留酒をふだんから飲んでいる、と報告しています。原文ではその酒を「オラーカ」と呼んでいます[1]。

球磨・人吉の酒造組合の年表も、16世紀前半に球磨や薩摩で焼酎造りが始まったとして、この報告を並べています[2]。

つまり、「米から造る焼酎」は、外国人の記録を信じるなら、落書きの時代にはもう珍しくなかった可能性があります。ただしこの報告は、特定の産地を指しているわけではありません。

球磨では、いつから、なぜ米を使い続けたのでしょうか。

落書きより13年前の1546年、薩摩に上陸したポルトガル商人ジョルジェ・アルヴァレスは、日本人が米から造る蒸留酒を常飲していると報告した(原文の語は「オラーカ」で、蒸留酒を指すとされる)。国土交通省九州地方整備局の資料は、これを戦国時代の薩摩の様子として紹介している[1]。球磨・人吉の酒造組合の年表も、16世紀前半に球磨や薩摩で焼酎造りが始まったとし、同じ報告を並べる[2]。

この二つを合わせると、16世紀の薩摩には、米を原料にした蒸留酒が実際にあった、と読める。ただし、報告の対象は薩摩であり、球磨の蔵を直接指すわけではない。落書き(1559年)と報告(1546年)の間は13年しかなく、焼酎の「始まり」を一つの年に決めることは、できない。

むしろ重要なのは、1546年の薩摩に関する報告で、蒸留酒が米から造られたと記されていることである。その後、サツマイモや麦、黒糖など、手ごろな原料へ移る地域が出てくる。球磨はそうしなかった。理由を次の章で見る。

4. ほかの ところは いもに、球磨くまは どうして お米?

4. なぜ球磨は米を使い続けたのか ── 藩主がためた米と、貴重だった米焼酎

4. 手ごろな原料に移った地域と、米を守った人吉球磨

おさけの もとは、お米の ほかに、さつまいもや 麦、黒さとうでも つくれます[5]。それでも 人吉ひとよし球磨くまの ところでは、500ねんほど 前から、お米で つくって きたと いわれます[5]。

ほかの ところが もっと てごろな ざいりょうに かえた 江戸えどじだいの おわりごろも、ここの 蔵元くらもとは お米を つかう つくりかたを まもりました[5]。

りゆうの ひとつに、この ちいきが 相良氏さがらしの おさめる 土地で、さかえて いた ことが あげられます。おさまが 米を たくさん ためて いたことも、お米の おさけが たくさん つくれた 理由の ひとつだと、かんこうの あんないでは せつめいされて います[6]。

それでも、お米の おさけは とても だいじな もので、ふつうの 人が なんでも のめる もの では ありませんでした。

焼酎は、サツマイモ、麦、黒糖からも蒸留できます。それでも国土交通省の観光多言語解説は、人吉球磨では16世紀初めから米で造られてきて、米で造ったものが本来の姿だと説明しています[5]。「500年ほど前から」という程度に受け取るのがよさそうです。

同じ解説は、ほかの蔵元が江戸時代後期にもっと手ごろな原料へ切りかえる中でも、この地域の蔵元は米を使う伝統的な製法を守った、と書いています[5]。

理由として語られるのは、相良家の統治です。人吉・球磨は12世紀から19世紀にかけて相良家の統治のもとで栄え、藩主が余った米を大量にためていたので米焼酎を多く造れた、と説明されます[6]。ただしこれは観光案内の説明で、その米の量を示す数字は資料にありません。

米焼酎は「ごほうび」のような貴重品だった

江戸時代の1657年、人吉城下では酒造株の制度が始まり、焼酎を造って売るには「株」が必要になりました。米焼酎の醸造販売を認められた蔵元は、20軒だったと組合の年表は書いています。農民は大麦などの雑穀で自家用の焼酎を造り、米焼酎は貴重品でした[2]。

米は食べ物としても大切です。その米を酒に回せるだけの余裕があった土地だったから、米焼酎が続いたのでしょう。

米で焼酎を造る方法は、こうして受け継がれてきました。では、その技術はどこから来たのでしょうか。

焼酎はサツマイモ、麦、黒糖からも蒸留できるが、国土交通省の観光多言語解説は、人吉球磨では16世紀初めから米で造られ、米でできたものが本来の姿だと説明する。同じ解説によれば、ほかの蔵元が江戸時代後期にもっと手ごろな原料へ切りかえる中で、この地域は米を使う製法を守った[5]。ただし「16世紀初め」は、組合の年表の「16世紀前半」と幅がある。本稿は「500年ほど前」と大づかみにとらえる[2]。

なぜ米だったのか。観光解説は、人吉・球磨が12〜19世紀に相良家の統治のもとで栄え、藩主が余った米を大量にためたので米焼酎を多く造れたとする[6]。ところが、余った米の量を示す数字は資料にない。米に余裕があったことが理由の一つだと考える見方として読むのがよい。

米焼酎は貴重品だった

余裕があったといっても、米焼酎は誰でも飲める酒ではなかった。1657年、人吉城下で酒造株の制度が始まり、焼酎の醸造販売には「株」が必要になった。米焼酎の販売を認められた蔵元は20軒で、農民は大麦などの雑穀で自家用の焼酎を造り、米焼酎は貴重品だったと組合の年表は書く[2](幕府の酒株とは別件で、人吉藩の話である)。

宝永7(1710)年の『巡見使応対之覚書』によると、酒株を持つ蔵元は人吉城下に18軒、大畑村に2軒、あわせて20軒で、焼酎の原料の米は球磨全体で年に345石(62キロリットル)だけだったという[7]。これは原典を確かめていない二次資料の記述なので、1657年の数字と矛盾はしないものの、目安として読む。1石は約180リットルで、345石は約6万2千リットルになる。

一升瓶(1.8リットル)に直すと約3万4千本分にあたる(本稿の概算)。球磨全体で1年にこれだけ、と考えると、米焼酎の貴重さが想像できる。では、そもそも蒸留の技術は、どこから球磨に来たのか。

5. 焼酎しょうちゅうの つくりかたは、どこから きたの?

5. 蒸留の技術はどこから来たのか ── 分かっていないこと

5. 蒸留技術の伝来経路をめぐる説と、そのあいまいさ

じつは、この 答えは まだ はっきり して いません。むかしの 書きものが ほとんど のこって いないからです[4]。

相良氏さがらしが 外国と かっぱつに 取り引きして いたので、そこから はいって きたのでは、と いう 話が あります[4]。

もうひとつ、おもしろい てがかりが あります。球磨くまでは、お酒を 入れる ガラがらと いう 入れものを つかいます。沖縄おきなわの 「カラカラ」と よく にて いると いわれます[7]。

むかしの 球磨くまでは、焼酎しょうちゅうを 「アワモリ」と よんで いた、とも いわれます。泡盛あわもりは 沖縄おきなわの おさけです[7]。それで、大もとは 琉球りゅうきゅうかも、と いう 考えかたを、ウィキペディアが しょうかいして います。きまった 答えでは ありません。

でも、どの 道を とおって きたのかは、わかって いません。

蒸留の技術がどのように球磨へ来たのかは、文献がほとんど残っておらず、正確には分かっていません[4]。

よく挙げられる説は、相良氏が東南アジアや大陸と活発に交易をしており、そのどこかから蒸留技術が持ち込まれたのではないか、というものです[4]。

もう一つ、Wikipediaが紹介する、琉球との関係を考える説があります。球磨には「ガラ」という酒器があり、沖縄の泡盛に使うカラカラとよく似ているといいます。また、明治のころまで球磨では焼酎を「アワモリ」と呼んでいたことから、大元は琉球かもしれないと示唆されています[7]。熊本県の観光資料も、「ガラ・チョク」を人吉球磨地方特有の酒器として紹介しています[8]。

ただし、これらは手がかりにとどまります。技術がどの道を通ったのかは、不明とされています[7]。

では、米焼酎の産地名は、いまどう守られているのでしょうか。

蒸留技術が球磨へどう伝わったかは、文献がほとんど残っておらず、正確には分からない[4]。出てくるのは、いくつかの説である。

第一は交易説である。相良氏が東南アジアや大陸と活発に交易を行っており、そこから技術が入ったのではないか、というもの。ただし、これを裏づける直接の記録は示されていない[4]。

第二は、Wikipediaが紹介する琉球説である。球磨では、泡盛に使うカラカラと酷似した酒器「ガラ」を用い、明治まで焼酎を「アワモリ」と呼んでいたことから、大元は琉球である可能性が示唆される。ただし技術の伝達経路そのものは不明、とも同じ資料は書く[7]。熊本県の観光資料は、「ガラ・チョク」を人吉球磨地方特有の酒器として挙げる(ガラの形や使い方の細部は本稿では扱わない)[8]。

組合の年表には、秀吉の朝鮮出兵のとき、相良氏が焼酎を造る技術者を連れ帰ったとする記述もある[2]。ただし、これは二次資料の記述にとどまる。しかも、先に見た1546年の報告と1559年の落書きは、これより前である。つまり、この説だけで伝来が説明できるわけではない。

説が複数並ぶのは、証拠が少ないからである。「どれが正しいか」より「どの資料が何を言っているか」を分けて読む。そのうえで、長く続いた米の焼酎を、今どう守っているのかを見る。

6. 「球磨くま」の 名前は、どうやって まもられて いるの?

6. 「球磨」の名前を守る産地の表示 ── 1995年の指定から2024年まで

6. 地理的表示「球磨」と、名乗れる条件・ユネスコ登録

1995ねんに、国は 「球磨くま」を、おさけを つくる ばしょの なまえとして みとめました[11]。シャンパンのように、どこで つくったか という なまえを、まもる しくみです。

「球磨くま焼酎しょうちゅう」と なのれるのは、日本の お米だけを つかい、人吉ひとよし球磨くまの 地下水で しこみ、この ちいきで じょうりゅうして びんに つめた ものです[9]。

2024ねん12月には、球磨くま焼酎しょうちゅうを ふくむ 「でんとうてきな 酒づくり」が、ユネスコの 無形文化遺産むけいぶんかいさんに のりました[9]。ただし、球磨くま焼酎しょうちゅうだけが のったのでは ありません。

500ねんの 間に、大工さんの ぐちから 世界の 目まで、焼酎しょうちゅうの お話は ひろがりました。

「球磨」は、国税庁長官が指定した酒類の地理的表示(GI)です。産地は熊本県球磨郡と人吉市、指定は平成7(1995)年6月30日で、同じ日に壱岐と琉球も指定されました[11]。コニャックやシャンパンのように、産地の名前が品質のしるしとして守られる仕組みです。

熊本県議会の報告によると、「球磨焼酎」は、国産米だけを原料にして、人吉球磨の地下水で仕込んだもろみを、人吉球磨で蒸留し瓶詰めしたものとされています[9]。つまり、原料の米も、水も、蒸留も、瓶詰めも、すべて決まった範囲の中で行います。

熊本県の資料は、球磨焼酎を、日本に4つしかない産地呼称が認められた本格焼酎のブランドだと紹介します。蔵元は27、銘柄は200以上です。盆地特有の寒暖差の大きい気候が米づくりに向くとも説明されています[10]。

さらに2024年12月には、球磨焼酎を含む「伝統的酒造り」がユネスコの無形文化遺産に登録されました[9]。登録されたのは「伝統的酒造り」全体で、球磨焼酎だけではありません。

大工の落書きから約470年、米で造る焼酎は、産地の名前ごと守られる酒になりました。では、この話を自分でも確かめてみるには、どうすればよいでしょうか。

米を使う伝統は、制度としても守られている。「球磨」は国税庁長官が指定した酒類の地理的表示(GI)で、産地は熊本県球磨郡及び人吉市、指定日は平成7(1995)年6月30日、酒類区分は蒸留酒である。同日に壱岐・琉球も指定された[11]。本稿がこの一覧から使うのは、産地・指定日・酒類区分の3点である。

熊本県議会の報告によると、「球磨焼酎」は、国産米のみを原料に、人吉球磨の地下水で仕込んだもろみを、人吉球磨で蒸留し瓶詰めしたものとされる[9]。つまり、原料・水・蒸留・瓶詰めのすべてが産地の中で完結する(麹など、より細かい生産基準は本稿では扱わない)。この基準は、これまで見てきた「米を使う」という昔からの選択を、産地名の条件として固めたものと読める。

熊本県の資料では、球磨焼酎は日本に4つしかない産地呼称が認められた本格焼酎のブランドとされ、蔵元は27、銘柄は200以上、盆地の寒暖差の大きい気候が米づくりに向くと説明される[10]。「4つ」は焼酎の中でのことで、国税庁の一覧では壱岐・球磨・琉球・薩摩にあたる[11]。

令和6(2024)年12月には、球磨焼酎を含む「伝統的酒造り」がユネスコの無形文化遺産に登録された。登録の単位は「伝統的酒造り」全体で、球磨焼酎単独ではない[9]。落書き(1559年)から約470年、柱の上の不満から出発した焼酎が、今は産地名ごと制度に守られている。ここまでを自分で追えるように、最後に確かめ方を整理する。

7. 地図と ラベルで、「球磨くま」を さがして みよう

7. 地図とラベルで「球磨」を探してみる

7. 地図とラベルで確かめる ── 領地の広がりと、産地表示の読み方

まず、地図を ひらいて みましょう。熊本くまもとけんの 人吉ひとよししと 球磨くまぐんを さがします。つぎに、鹿児島かごしまけんの 大口(いまの 伊佐いさし)を さがします。2つの 場所は、おなじ 家の とちだった ところです[4]。

おうちの 人に たのんで、おさけの びんの ラベルを 見せて もらっても いいです。「球磨くま」と いう 産地さんちの ひょうじが あるか、さがして みます。のむ ためでは なく、もじを 見る だけです。おとなに なるまで、おさけは のみません。

もっと 知りたい ときは、国ぜいちょうの ページを 見ると、「球磨くま」の ほかの ばしょの なまえも のって います[11]。

地図を開いて、熊本県の人吉市・球磨郡と、鹿児島県の大口(今の伊佐市)を探してみましょう。同じ相良氏の領地だった二つの場所が、今は県境で分かれていることが分かります[4]。

家の人に頼んで、お酒のラベルを見せてもらうのもよい方法です。「球磨」という産地の表示があるかを、文字を読んで探してみます。味わうためではなく、文字を見るだけの観察です。お酒は大人になってからです。

数字の比べ方もあります。1657年に米焼酎を造れた蔵元は20軒でした。いまの蔵元の数を熊本県の資料で調べて、くらべてみてください。

産地の一覧は、国税庁の「酒類の地理的表示一覧」で見られます[11]。球磨の歴史の年表は、球磨焼酎の公式サイトで読めます[2]。

確かめ方は三つある。第一に、地図で熊本県の人吉市・球磨郡と、鹿児島県の大口(現・伊佐市)を探し、相良氏の領地が県境をまたいでいたことを位置関係で確かめる[4]。第二に、家の人に頼んで酒のラベルを見せてもらい、「球磨」といった産地の表示を文字として探す。観察だけで、飲むためではない。未成年は飲酒しない。

第三に、数字の突き合わせである。1657年の20軒と、1710年の20軒(城下18、大畑村2)という記述を、資料どうしで見比べる。あわせて、熊本県の資料[10]にある現在の蔵元数(27)とも比べてみる。

国税庁の酒類の地理的表示一覧[11]で「球磨」の指定日と産地を見て、組合の年表[2]に並ぶ落書き・報告・酒造株の年と比べると、どこまでが記録で、どこからが紹介の言葉かを自分で線引きできる。

焼酎の始まりは、一つの年や一つの場所に決められない。決まらない部分が、まだ調べる余地として残っている。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:国や県の資料、国税庁の年表と一覧、酒造組合・蔵元の歴史紹介、百科事典を使いました。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いています。

  1. 国土交通省 九州地方整備局「食文化のはじまり」。https://www.qsr.mlit.go.jp/suishin/story2019/02_6.html (落書きの発見と、1546年のポルトガル商人の報告について)
  2. 球磨焼酎公式「球磨焼酎の歴史」。https://kumashochu.or.jp/wp/history/ (落書きの内容の言い伝え、年表、酒造株について。組合の紹介)
  3. 国税庁「こうじ菌を使った酒類の主な事項の年表」。https://www.nta.go.jp/taxes/sake/koujikin/pdf/0021012-102_09.pdf (1559年の落書きの記載について)
  4. 高橋酒造「球磨焼酎500年の歴史」。https://www.hakutake.co.jp/learn/kuma/ (相良氏の領地と、技術の伝来についての説明。蔵元の紹介)
  5. 国土交通省 観光多言語解説「球磨焼酎/歴史と焼酎蔵」。https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R4-00324.html (米で造る伝統と、江戸時代後期の原料の話について)
  6. 国土交通省 観光多言語解説「人吉について/球磨焼酎」。https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R4-00303.html (相良家の統治と、余った米の説明について)
  7. Wikipedia「球磨焼酎」。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%83%E7%A3%A8%E7%84%BC%E9%85%8E (ガラやアワモリの呼び名、1710年の資料の紹介。二次資料なので弱く扱った)
  8. 熊本県 観光資料「熊本の焼酎」。https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/51107.pdf (ガラ・チョクが人吉球磨地方特有の酒器とされることについて)
  9. 熊本県議会 令和6年11月定例会報告。https://www.pref.kumamoto.jp/site/gikai/229776.html (球磨焼酎を名乗れる条件と、ユネスコ登録について)
  10. 熊本県「球磨焼酎の紹介」。https://www.pref.kumamoto.jp/site/kennan/88446.html (蔵元数・銘柄数と、産地呼称について)
  11. 国税庁「酒類の地理的表示一覧」。https://www.nta.go.jp/taxes/sake/hyoji/chiri/ichiran.htm (「球磨」の産地・指定日・区分について)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

  •  初版を公開。

このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。