1. すしやの ゆのみは、どうして 大きいの?
1. 寿司屋の湯のみが大きい理由には、二つの説がある
1. 寿司屋の大きな湯のみ:手洗い説と注ぎ足し省略説
すしやさんの ゆのみには、鯵、鰻、鰹、鮭の ような 魚へんの かんじが ならびます。むずかしい ものだと、鱚、鰍、鮗も あります[7]。
この ゆのみが 大きい わけには、おもしろい はなしが のこって います。にぎりずしが できた ころ、おみせは やたいで、おじさんが ひとりで すしを にぎり、おきゃくさんの せわも、おかねの やりとりも して いました。
おしぼりを だす よゆうは ありません。そこで、たべおわった おきゃくさんに、「お茶の はいった ゆのみに 手を いれて あらって ください」と すすめた、という せつが あります。あらいやすいように、すこしずつ 大きく なったと いうのです[7]。
ただ、これは ひとつの せつです。べつの しりょうには、お茶を つぎたす てまを へらす くふうだ、という せつめいも あります。どちらが ただしいのかは、はっきり していません。
そもそも、「ゆのみ」は、いつごろから 家に あったのでしょう。
魚へんの漢字と、手を洗う話
寿司屋の湯のみに並ぶ魚へんの漢字は、鯵・鰻・鰹・鮭のような簡単なものから、鱚・鰍・鮗のような難しいものまで様々です[7]。大きさについては、一つの資料に、次の説が紹介されています。
握り寿司が考えられた文政のころ、屋台の店主は一人で握りも給仕も会計もこなしていました。おしぼりを出す余裕がなく、食べ終えた客に、お茶の入った湯のみに手を入れて洗うよう勧めた。洗いやすいよう、湯のみは少しずつ大きくなった、という説です[7]。
もう一つの説明
別の資料は、お茶を注ぎ足す手間を減らす工夫だったと説明しています。どちらも決め手になる資料はなく、由来は一つに決まっていません。
では、寿司屋の外の、ふつうの湯のみはどう生まれたのでしょうか。出発点は、「茶碗」という言葉です。
寿司屋の湯のみに魚へんの漢字が並ぶことは広く知られ、鯵・鰻・鰹・鮭のような易しい字から、鱚・鰍・鮗のような難しい字まで見られる[7]。では、その大きさにはどんな由来があるのか。
有力とされる説の一つは、次のとおりである。文政年間に握り寿司が考案された当時、屋台は店主が一人で握り・給仕・会計をまかなっていた。おしぼりを出す余裕がなく、店主は客に、食後にお茶の入った湯のみへ手を入れて洗うよう勧めた。洗いやすいように、湯のみが少しずつ大きくなった、という筋書きである[7]。
ただし、これは一つの資料が紹介する説で、同じ資料群には、注ぎ足しの手間を減らすための工夫とする説明もある。どちらも当時の記録で裏づけられたものとは言えず、由来は一つに決まっていない。
いずれの説でも、湯のみの大きさは「どう使われるか」で変わりうる器だったことになる。では、そもそも「湯のみ」の仲間にあたる器は、どこから来たのか。手がかりは「茶碗」という語にある。
2. 「ちゃわん」は、もとは なにを さして いた?
2. 「茶碗」という言葉は、はじめは何を指していたのか
2. 「茶碗」の語義:輸入陶磁器の総称から、お茶の器へ
「ちゃわん」と きくと、ごはんを たべる うつわを おもいうかべる 人が おおいでしょう。でも、むかしの 「ちゃわん」は、すこし ちがう ものを さして いました。
もとは、中国から はこばれて きた、うわぐすりの かかった とうじきぜんぶを、「ちゃわん」と よんで いました[1]。うわぐすりは、やきものの ひょうめんを おおう、つるつるした ガラスのような ところです。
かまくらじだいの おてらでは、お茶の こなを とかして のむ、すこし ふしぎな 飲みかたが ありました。その ときの わんは 建盞や 天目と よばれ、「ちゃわん」とは わけて いたそうです[1]。
では、いまの ゆのみに ちかい 小さな わんは、いつ ふえたのでしょう。
輸入された焼き物の呼び名
「茶碗」は、お茶のためだけの言葉ではありませんでした。もとは、中国から輸入された、釉薬のかかった陶磁器全体を指す言葉だったといいます[1]。釉薬は、焼き物の表面をおおう、ガラスのような層です。
お茶の器とは別だった
鎌倉時代、寺では抹茶を飲んでいました。その器である建盞や天目は、茶碗とは別の名前で呼ばれていたとされます[1]。つまり、最初のうちは「お茶を飲む器」と「茶碗」はぴったり重なっていませんでした。
この言葉がお茶の器と深く結びつくのは、もう少しあとの話です。では、お茶の飲み方が変わると、器はどう変わったのでしょうか。
「茶碗」の語は、意外なことに、お茶の器とは限らなかった。当時の日本では、中国から輸入された釉薬のかかった陶磁器全体が「茶碗」と呼ばれていたと説明される[1]。釉薬は、焼き物の表面にかける、ガラス質の層である。
一方、鎌倉時代に寺で抹茶を飲むのに使われた建盞や天目は、「茶碗」とは区別して呼ばれた[1]。したがって、現在の私たちの感覚とは逆に、元の「茶碗」は食器の広い総称であり、抹茶の専用器はその外に置かれていたことになる。
この資料から言えるのは、語の範囲が時代とともに動いたということまでである。「茶碗」が今のように、飯碗や湯のみの意味で使われるようになる細かな過程は、ここで使った資料だけでは追えない。そこで、湯のみに近い器が増えた時期に目を向ける。お茶の主役が抹茶から煎茶に変わった、江戸時代である。
3. 江戸で 煎茶が はやると、うつわは どう かわった?
3. 江戸時代に煎茶が流行すると、茶碗はどう変わったのか
3. 煎茶の流行と、小ぶりな煎茶碗の登場
江戸じだいの なかごろから、煎茶が きゅうに はやりました。はじめは、大さかや 京都で、ちゅうごくの 書や 絵が すきな 人たちから ひろまったと いわれます[2]。
煎茶は、お茶の は を お湯に ひたして いれる お茶です。この お茶を のむ わんは、お茶を たてる ときの わんとは わけて かんがえられました。
京都の ひがしやまの やきものを つくる 人たちは、いろいろな かたちの 煎茶の わんを つくりました。ちゅうごくの わんを まねた ものが おおいのですが、青木木米のような 名人には、じぶんの くふうも 見られます[2]。
お茶を あじわう わんは、小さいのが ふつうです。玉露用なら、高さが 4〜5cm、よこが 5〜6cmで、おちょこと おなじくらいと いわれます[3]。
京都と大坂で広まった煎茶
江戸時代の中ごろから、煎茶は急に流行しました。大坂や京都を中心に、中国の書画を好み、古い器に親しむ文人墨客を通じて広まったとされます[2]。煎茶の茶碗は、茶の湯の茶碗と区別して考えられました。
江戸後期には、京都東山の窯の陶工たちが、多彩な煎茶碗を作りました。多くは中国の碗をまねたものでしたが、青木木米のような名工には独自の工夫がうかがえるといいます[2]。
おちょこほどの大きさ
煎茶道で使う茶碗は小ぶりです。玉露用は特に小さく、高さ4〜5cm、直径5〜6cmほどの、おちょこサイズだといいます[3]。背が低い汲み出し形で、香りが立ちやすいため、煎茶や玉露に向くとされます。
ここまでで出てきたのは、背の低い小さな器です。では、背の高い筒形の湯呑は、どこで登場するのでしょうか。
江戸時代の中ごろから、煎茶は急激に流行した。大坂・京都を中心に、中国の書画を好み古器に親しむ文人墨客によって広まったとされ[2]、その茶碗は茶の湯の茶碗と区別して考えられるようになった。お茶の飲み方が変われば、器にも別の条件が生まれる、という例である。
この需要に応えたのが、江戸後期の京都東山の窯である。陶工たちは多彩な煎茶碗を作ったが、多くは中国の碗の模倣であり、青木木米のような名工には独自の作為がうかがえる、と説明される[2]。流行は、まず既存の中国風の形を取り入れるところから始まり、その中から工夫が出てきたと読める。
煎茶碗の寸法は、現在の資料で確かめられる。玉露用は特に小ぶりで、高さ4〜5cm、直径5〜6cmほどである[3]。高さと直径の比は、4÷6から5÷5までで約0.7〜1.0になり、背の低い器であることが数字からも分かる。汲み出し形のこの器は、香りが立ちやすいため煎茶・玉露に向くとされる。ただし、これは煎茶道で使う茶碗の話で、日常の飲み物の器まで同じだったわけではない。では、日常の器はどう使い分けられたのか。
4. 小さな わんと、ゆのみは どう つかいわけたの?
4. 煎茶碗と湯呑は、どのように使い分けられたのか
4. 煎茶碗と湯呑の使い分け:口の広さと保温の違い
江戸じだいに 煎茶が はやると、煎茶の わんと、白湯や 番茶を のむ ための 湯呑が、つかいわけられる ように なりました[4]。
ゆのみは、たてに ながい つつの かたちです。手で にぎって もてて、ねつが にげにくく、さめにくいと いわれます[4]。ふゆの あつい お茶に ぴったりですね。
煎茶の わんは、口が ひろくて あさいので、お茶の いろが よく 見えます。うちがわに 絵が かいて ある ものは、それも たのしめます[4]。
「ゆのみ」という なまえにも、せつが あります。むかしの 家では、いろりで わかした お湯を さまして のみました。その お湯を のむ うつわだから、ゆのみと なったと いうのです[6]。
二つの器の役割
煎茶が流行すると、煎茶用の茶碗と、白湯や番茶を飲むための湯呑が使い分けられるようになりました[4]。湯呑は縦長の筒形で、片手で握るように持てます。熱が逃げにくく、冷めにくい形だと説明されます。
これに対して、口が広くて浅い煎茶碗は、お茶の色や、内側に描かれた絵付けも楽しめる器です[4]。同じ「お茶の器」でも、飲み物のどこを味わいたいかで、形の向きが違ったことになります。
「湯呑」という名前の由来
「湯呑」という名前は、江戸時代に囲炉裏などで沸かした湯を冷まして飲む器に由来する、とされます[6]。これは一つの資料の説なので、時期や語源を断定はできません。
同じ資料は、江戸時代に寿司の文化が広まると、陶磁器の湯呑でお茶を飲む習慣が広がった、とも書いています[6]。最初の寿司屋の湯のみの話に、ここでつながりました。では、その湯呑は、どうして家庭の定番になれたのでしょうか。
江戸時代に煎茶が流行すると、煎茶用の茶碗と、白湯や番茶を飲む湯呑とが使い分けられるようになった[4]。湯呑は縦長の筒形で、片手で握るように持て、熱が逃げにくいとされる。一方、口が広く浅い煎茶碗は、お茶の色や内側の絵付けも味わえる[4]。
形と用途の対応を整理すると、次のようになる。前の章で見た玉露用の碗は高さ4〜5cm、直径5〜6cmで、背が低く、香りを立たせる形だった。それに対して湯呑は、縦に長い筒形で、熱が逃げにくく冷めにくいと説明される。ただしこの保温の説明は、一般向けの解説に基づくもので、実測の比較ではない。
「湯呑」という名の由来は、江戸時代に囲炉裏などで沸かした湯を冷まして飲む器だったことにある、とされる[6]。同じ資料によれば、江戸時代に寿司の文化が広まると、陶磁器の湯呑でお茶を飲む習慣も広がった。語源も時期も一つの資料の説なので、断定は避ける。
それでも、冒頭の寿司屋の湯のみと、煎茶碗の小ささは、一本の線でつながって見える。器の大きさと形は、そこで何をするか(手を洗う、香りを楽しむ、冷めにくく飲む)と結びついていたと読める。では、そうした筒形の器が、なぜ多くの家庭に行き渡れたのか。
5. 安い じきが、ゆのみを うちに とどけたの?
5. 安い磁器が出ると、ふつうの人の器はどう変わったのか
5. 磁器の普及と湯のみの家庭への定着
むかしは、いい やきものは、ぶしや お金もちの ものでした。ところが 300ねんほど まえに、ながさきけんの 波佐見などで、「くらわんか茶わん」と いう ねだんの やすい じきが つくられるように なりました[5]。
やすい じきが つくられ、伊万里やきも、ぶしや お金もちだけでなく、ひろく つかわれるように なりました。じょうぶで、きれいに あらえる じきが、くらしの 中に 入って きたのです[5]。
ある しりょうでは、江戸じだいに 日本で つくった じきが ふえて、ふつうの 人も じきの うつわを つかうように なったと せつめいされます[6]。べつの しりょうには、めいじ いこうに じきの ゆのみが たくさん つくられて、うちに ひろまったと いう ものも あります[4]。
ただし、なぜ いまの つつの かたちに なったのかを、ずばり 書いた しりょうは、ここでは 見つかって いません。でも、お茶の のみかたと、やすい じきの ひろまりが かさなって、家に とどいたのだろうと 考えられます。
武士や金持ちだけのものではなくなった
17世紀末から18世紀のはじめにかけて、長崎県の波佐見などで、「くらわんか茶碗」という値段の安い磁器が作られるようになりました。安価な磁器が作られ、伊万里焼も、武士や金持ちだけでなく庶民にも広く使われるようになったとされます[5]。丈夫で清潔な磁器が、くらしに入ってきたのです。
国産磁器が広まると、器の意味も変わった
国産の磁器が広まると、「茶碗」が飯碗の意味で定着していった、と説明する資料があります[6]。湯のみについては、明治以降に有田などの産地で磁器製が大量生産され、家庭に定着した、という説明もあります[4]。ただし、この大量生産の話は一つの資料だけで、年は書かれていません。
筒形になった理由は、組み合わせの読み
湯のみが「なぜ今の筒形・取っ手なし」になったかを直接説明した資料は、今回は見つかっていません。煎茶の流行、使い分け、安い磁器の広まりをつなげて読むと、筒形の湯のみが家庭に届く流れは見えますが、どれが決め手かは断定できません。そこで最後に、家にある湯のみから、この流れを自分で確かめてみましょう。
17世紀末から18世紀初めに、長崎県の波佐見などで「くらわんか茶碗」と呼ばれる安価な磁器が作られ、伊万里焼も武士や富裕層だけでなく、広く使われるようになった[5]。丈夫で清潔な磁器が、日常に入ったという点が重要である。
では、その磁器の器は湯のみの定着にどうかかわったのか。国産磁器が広まると、「茶碗」が飯碗の意味で定着していった、と説く資料がある[6]。湯のみについては、明治以降に有田などの産地で磁器製の湯のみが大量生産され、家庭に定着したとする説明が別にある[4]。ただし後者は一つの資料の記述で、年号の裏づけは示されていないため、本稿では年を書かない。
煎茶の流行(形の使い分けの需要)、安価な磁器の普及(誰でも買える条件)、寿司などの食文化の広まり(湯呑でお茶を飲む習慣)は、それぞれ別の資料が示すことである。これらを組み合わせると、筒形の湯のみが家庭に届く道筋は読み取れる。ただし、筒形になった理由までは、この資料からは分からない。
資料が支える範囲と、組み合わせで読んだ範囲を分けておくと、湯のみの形についての説明を見たとき、どこまでが確かな話か自分で判断しやすくなる。手がかりは、家にある器そのものにもある。
6. 家の ゆのみを ならべて、しらべて みよう
6. 家の湯のみを並べて、形の違いを数字にする
6. 高さと口径の比で、器の用途を読む
おうちに ある ゆのみや、コップ、おちゃわんを ならべて みましょう。ものさしで、高さと、くちの よこはばを はかります。ゆのみに お茶を いれる 前の、からっぽの うちに はかって ください。
高さを よこはばで わると、「たてに ながいか、ひくいか」が すうじで わかります。1より 大きければ たてに ながい かたち、1より 小さければ せの ひくい かたちです。1に ちかい うつわも あります。
玉露の わんは、4〜5cmを 5〜6cmで わるので、0.7〜1くらいです。おうちの ゆのみは、これより 大きいでしょうか。すしやさんで ゆのみを 見る ときにも、たしかめて みて ください。
高さと口の広さを比べる
家にある湯のみ、コップ、ご飯茶碗、おちょこを並べて、空のまま定規で高さと口の直径を測り、高さを直径で割ってみてください。1より大きければ縦長、小さければ背が低い器です。
玉露用の茶碗は、高さ4〜5cm、直径5〜6cmなので、この値は約0.7〜1.0です[3]。縦長の筒形の湯呑は、これより大きな値になりそうです。家の器で確かめてみましょう。この記事で出てきた使い分けが、身近な器のどこに出ているかが分かります。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文は、ここにある資料の内容を、自分の言葉で言いかえたものです。年・名称・由来は、資料によって細部が異なることがあります。
- 東京藝術大学 茶(geicha)ページ https://geicha.geidai.ac.jp/?p=1122 (「茶碗」の語の元の意味、建盞・天目)
- コトバンク「煎茶碗」 https://kotobank.jp/word/%E7%85%8E%E8%8C%B6%E7%A2%97-1353969 (江戸の煎茶の流行、京都の陶工)
- 煎茶ノート「茶碗・茗碗・茶盃・茶盞」 https://sencha-note.com/chawan/ (玉露用の茶碗の大きさ。一般向けの解説)
- ジェイトピア「湯呑の歴史や種類」 https://www.jtopia.co.jp/blogs/blog/history-types-teacups-sencha (湯呑と煎茶碗の使い分け、明治以降の大量生産。事業者の解説)
- 伊万里市「古伊万里について」 https://www.city.imari.lg.jp/21096.htm (くらわんか茶碗と磁器の普及)
- 和食ジャパン コラム「茶碗と湯呑」 https://washokujapan.jp/column/info-20230516/ (湯呑の名の由来の一説、国産磁器の普及。一つの資料の説)
- 現代ビジネス「寿司屋の湯のみ」の記事 https://gendai.media/articles/-/53642 (魚へんの漢字、大きさの説)
なおした ところ
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